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 雨のち曇り。湯が谷は晴れ、夜には綺麗な上弦の月が見える。 月齢6.9 八日月 破鏡  二百十日

 今日、仕事の帰り道、いつものように川沿いを歩いてたらね、すっと目の前を青色の綺麗な鳥が横切ったんですよね。そっと近づいてよくよく見てみると、カワセミでした。15メートルくらいの近距離でみたんですけど、綺麗でしたよ。家のすぐ前でこういう鳥と会えるって、いいですね。
 今日から9月。つまり今年も2/3が終わったっていう事ですね。早い早い。新学期のスタートという事で、みなさんバタバタしてませんか? え? 「新学期なんて関係ない」って? ごもっともです。
 「二百十日(にひゃくとおか)」という事で、今日は防災の日ですね。1923年の今日、関東大震災が発生、死傷者20万人以上、行方不明者4万人以上という未曾有の大災害となっています。去年起きた「耐震偽装事件」はこういった大災害を軽視したものですが、防災の日の今日、それらをどう評価し、どう取り組むのか考え直すべきなんじゃないでしょうか。

 九月、すこしづつ日が落ちるのが早くなった事や夜が長くなってきたのが実感される月ですね。和名では「長月(ながつき)」といい、「夜長月(よながつき)」が略されたものとされています。これ以外にも、菊月、紅葉月、色取月、玄月、紅梅月、濃染月・木染月、寝覚月、夜長月、小田刈月、高秋、梢秋、花吹秋、晩秋、暮秋といった別名があります。
 「暑さ寒さも彼岸まで」とか「秋の日はつるべ落とし」なんて昔から言いますが、秋分を過ぎると夜の方が長くなる訳で、こういう言葉、よく判りますよね。

 言葉つながりですけれど・・・。
 毎週金曜日というと、「太田光の私が総理大臣になったら…」っていう番組を見ているんですよね。これ、爆笑問題の太田光が総理大臣っていう設定で、色々荒唐無稽とも思えるような法案を提出するんですよね。で、そこで、「メール全面禁止」なんて法案を太田総理が提出したんですよ。結局、この法案は否決されちゃうんですけれど、その議論がなかなか面白かったんですよね。で、その中で、「メールが日本語能力を低下させている」っていう話もあったんです。これ、なるほどなって感心したんですよね。
 そういえば、メール以上にメッセンジャーを使っていると、これはダメだろって思うような事結構ありますね。時々、全く知らない人から私のプロフィールを見てメッセージをくれる人がいます。その多くは「手話」についてだったり、「手話通訳」についてだったりするんですけれど、その文章が実に一語文だったり、主語が何かが全く明瞭になっていなかったり、突然話題が飛んだりとあまりにも幼稚なものが多いんですよね。
 テレビで某大学の先生が言っていた事ですが、「話し言葉をそのまま書き言葉にしてしまっているからダメだ」というのもとても納得するものですね。
 そもそも、話し言葉と書き言葉っていうのは同一言語でありながらも全く違うものなんですが、それを意識している(いやいや、そもそも理解している)人があまりいないんですよね。メッセンジャーだと同時性が高いので余計に錯覚を起こしてしまうんでしょうね。でも、気をつけなければこのとても大きな落とし穴にはまってしまう訳です。
 それと、どうもちゃんと挨拶が出来ない人とか多い気がしますね。自分から話しかけてきて、「話題は無いのか?」と訊いてくる人とか、こういう人、実際の対面でのコミュニケーションって、出来てるんでしょうか?驚くのはこういう人が「手話通訳になりたいのですが・・・」と言ってくる事で、そもそもコミュニケーション能力の低い人に通訳っていう仕事は無理なんだけどなぁ・・・・。と、思う事がよくあります。そうそう、句読点を打たない人とかも結構いますよね。あれ、読みにくいんですよね。話が終わったのかどうかも解り辛いし。
 コミュニケーションって言うのは一種のデザインなんですよね。ちゃんと構成されるべき場合っていうのがある訳で(フリーセッションのような場合っていうのも沢山ありますけれど)、それには膨大なバックグラウンドとしての情報を持っていなければいけないし、それらを適切にコントロールする能力って言うのも必要になる訳です(これは通訳に限った事ではありませんけれど)。
 私は「メール全面禁止」なんて馬鹿げた事には賛成する気はありませんけれど、直接会って話をするとか、ちゃんとした相方向性のコミュニケーションをする事っていうのは大切だと思いますね。メールもちゃんと(その特性を理解した上で)利用すればそういった事の練習の場にも成でしょうし、良いんじゃないですか。
 そもそも、聞こえない人からメールを取り上げるなんて事になると、それはもう人権蹂躙ですからね。ムリムリ。
 「言葉は生きているのだから、色々な環境の変化とともに変わっていくのは仕方のない事。」と言う意見もあるかも知れませんけれど、それでも最低限の原則というものは存在している訳で、そういった原則的ルールの相互理解があるからこそ会話というのは成立するんだと思うんですよね。それを無視して自分勝手にルールを変えてしまうっていうのは既にその時点でコミュニケーションを放棄しているように思うのですが、どうなんでしょうか。