| Home |
2007.05.04
カミーユとロダン

晴れ後曇。 月齢16.6 居待月
五月になりました。今年ももう4ヶ月が終わり、つまりは1/3が終わったっていう事ですね。早いなぁ。何も出来ちゃいないままに4ヶ月終わったって、寂しい限りです。
ツツジやサツキの咲く季節ですね。「サツキ」、五月の和名ですが、「皐月(さつき)」、「五月雨月(さみだれづき)」、「橘月(たちばなづき)」等の異名があります。季語としては「薫風」「新緑」「暖春」「晩春」「暮春」等がありますが、「薫風」ってカッコいいですね。
元参議院議員、元大阪府知事、漫才界の重鎮横山ノック氏がガンで亡くなられました。享年75歳。知事の再選時にセクハラが発覚し辞職に追い込まれ、有罪となる。芸能界からも干される形になり、晩年は芸能界に復帰するも細々と活動を続け、「もうテレビには出ない」といっていたんだそうです。
セクハラ自体は、してはいけない事をした訳ですが、地元に愛された人でした。芸人仲間で彼を悪く言う人はいないようで、慕われていた様子が窺われます。ご冥福をお祈りいたします。
兵庫県立美術館で開催中の「ロダン--創造の秘密 白と黒の新しい世界」という展覧会に行ってきました。ロダンそのものはそれほど好きじゃないんですけども、カミーユの作品が展示されるという事だったので、カミーユを見に行ったっていうのが正しいかも知れませんね。
「白と黒の新しい世界」というサブタイトルを象徴するかのように、入ってすぐの部屋に展示してあったのがカミーユの制作したブロンズの「ロダンの肖像」とロダンによるロダンの制作した石膏による「カミーユ・クローデルのマスク」が並べて展示されていました。「ロダンの肖像」は1888〜1889年頃(ロダン48〜49歳)の制作、1892年にブロンズにされたものだそうです。一方、ロダンによるカミーユのマスクが作られたのが1884年(カミーユ20歳)。カミーユとロダンが出会ったのが1883年ですから出会ってすぐに制作され始めたものという事のようです。ちなみに、カミーユがロダンの下から独立してアトリエを持ったのが1892年ですから、その頃にブロンズ像化されています。このブロンズはカミーユの作品中でも尤も有名なものの一つとされている訳で、師であり愛人であったロダンを越えようとする中でロダンをモデルにした作品が皮肉にも注目を浴びたという事になります。1898年にはロダンとの破局を迎える訳ですが、ロダンの1893〜1895年の作品とされている「ラ・パンセ(思索)」はカミーユをモデルとして作られたもので、カミーユが30歳前後のものです。
ロダンとの関係がおそらく一番親密で絶頂だった頃に作られ、ロダンとの関係が崩れ始める頃にブロンズ化されたロダンの肖像はロダンの芸術に対する意志や苦悩、そして、カミーユのロダンに対する尊敬や不安が複雑に表現されています。一方の「カミーユ・クローデルのマスク」には、当時20歳だったカミーユの若さに対する、当時既に44歳に達していたロダンの羨望や美しさに対する憧れが表現されていて、まだ幼さの残るカミーユのそれでも意志力の現れた目元にはその後の進む道が暗示されているように感じます。
それに対して、破局を迎える直前の作品となった「ラ・パンセ」からは当時30歳のカミーユの美しさの表現と共にロダンのカミーユに対する愛情を感じる事が出来ます。この頃、カミーユは既に独立してアトリエを構えてはいましたが、ロダンとは作品制作上の協力関係にあり、その後も関係は続いていたようです。とはいえ、3年後の1898年には破局を迎えている事からロダンとカミーユの蜜月期の終わりに作られたものとなります。それでも、その作品からカミーユに対する愛情を感じられるのはロダンの優柔不断さから来るモノなのでしょうか。それとも、ホントにロダンはカミーユを愛し続けていたのでしょうか。
これ以外に印象的だったのは「花子」と名付けられた日本人女性(本名太田ひさ)の肖像でロダンは彼女をモデルにした作品を50点以上作っています。一人の女性で制作された点数としては最高の数で、彼女のエキゾチックさがロダンの創作意欲をかき立てたのでしょうか。花子はその後帰国し、晩年を岐阜県で過ごしています。高村光太郎がロダンの作品を見に花子のもとを訪れているのが記録に残っています。
あ、そうそう、この展覧会を開催していた兵庫県立美術館は安藤忠雄氏による建築で、コンクリート打ちっ放しの壁が彫刻をより一層引き立てていました。
| Home |

