| Home |
2007.05.22
通訳とは何だろう

晴れ。 月齢5.3 六日月 磨鑛(まこう)
今日は暑い一日。今もちょっと暑いくらいです。眠れるのかなぁ?
上方お笑い大賞が35年の歴史に幕を下ろすんだそうです。これ、どういう事でしょうか。これほどお笑いの中で伝統と格式のある賞が無くなるなんていうのはとんでもない事ですよ。いってみれば、レコード大賞が無くなるようなものなんですよね。文化を何だと思ってるんでしょうね。
掲示板の方で、桃象さんからの問い掛けに答えつつ、そもそも「通訳文化」とか、「手話通訳の特異性」という事についてもう少し整理していくべきなのかも知れないなと思い始めています。それには他の音声言語通訳の例をもっと調べてみて比較していくというのが良いのかも知れませんね。それにしても、今更ながら残念でならないのが米原万理さんの後援会。実現直前でご本人のご都合で流れてしまったんですけど、お亡くなりになった現在ではもう企画する事すら出来ない事ですね。では、一体誰にお願いするのが良いのか、この辺りも考えてみたいなぁ。って、こういう企画をしたところでどうしようって言うんでしょうか。でもね、音声言語通訳者に聞いてみたい事って沢山あるんですよね。例えば、「これは通訳しなくていいですからね」って言われたりするケースってたまにあるんですけれど、こういう場合、音声言語通訳者はどうしてるんでしょうね。
手話通訳に対するニーズが近年益々多様化していると感じています。これは、通訳シーンだけではなく、通訳に求められる質や性格(個人の性格という意味ではなく、通訳のスタイル等)に関してもどんどん多様化していっているんじゃないでしょうか。これはつまりはろう者の生活スタイルの広がりと、もう一つはいまだに未就学で何の支援も受けてなかったろう者が突然見つかったりっていう事があるという事なのかも知れません。情報保障とろう教育は相互作用を果たします。ろう教育が充実すれば当然ながら通訳の利用者の受容量も大きく広くなる訳で、それらに対応する為に手話通訳の変化をしていきます。そしてそれは社会参加の広がりにも関わります。また、情報保障が充実すれば、ろう者の学習環境も変化し、高等教育のシーンも充実する事でしょう。その結果、社会参加が広がります。つまりね、どちらが欠けてもダメだっていう事なんだと思ってるんですよね。
ろう教育の現場では私はどちらかというと、日本語対応手話の方が良いように思っているんですよね。いや、日本手話で通訳して欲しいと言われれば、それはそれで対応出来るつもりではいますし、私自身はその方が楽なんですけれど、そういう意味ではなく、日本語対応手話と、書記日本語の併用で進める方がいいだろうと思っています。これも色々な考え方があるんでしょうけれど。
で、その結果、手話通訳に求められるのが、桃象さんもおっしゃっているように「言葉(日本語)のままの伝達を」というモノになっていくんじゃないかと思うんですよ。で、そうなった時に通訳者がする通訳は、「音声日本語-手指日本語」という事になっていくんじゃないかと思うんですよね。そうなった時に、単純に他の音声言語通訳と比較する事が出来るのかって言うと、違ってくるんじゃないかと思うんですよ。
この辺り、まだまだ漠然とした思いなので、もう少し整理してみて検証してみたいと思っています(で、その為にも、音声言語通訳者ともっと色々意見交換したいと思っている訳ですよ)。
| Home |

