川辺のタヌキ
  • Author:川辺のタヌキ
  • 大阪で活動している手話通訳者。大学で芸術学部に在籍するもなぜか福祉分野へ。
    芸術を愛し、人との関わりを愛するお人よしです。
  • RSS
川辺のタヌキの独り言
川辺のタヌキの日々の雑感をとりとめも無く綴ります。
ご訪問者の方々


カレンダー

05 | 2007/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30


プロフィール

川辺のタヌキ

Author:川辺のタヌキ
大阪で活動している手話通訳者。大学で芸術学部に在籍するもなぜか福祉分野へ。
芸術を愛し、人との関わりを愛するお人よしです。


最近のコメント


最近の記事


天気予報


-天気予報コム- -FC2-


カテゴリー


月別アーカイブ


QRコード

QRコード


ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


リンク

このブログをリンクに追加する


ブログ内検索


RSSフィード


Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ


大切なもの
DSCF7264.jpg


 暗い話ばかりで、何だか息がつまりそうですが、そんな中、大阪出身の神尾真由子さんがチャイコフスキー国際コンクールのヴァイオリン部門で優勝されたというニュースが飛び込んできました。チャイコフスキーコンクールは今でこそチェロ部門や声楽部門、ピアノ部門といったものが出来ていますが、もともとはヴァイオリンのコンクールなんですよね。チャイコフスキーコンクールのヴァイオリン部門の日本人の優勝は諏訪内晶子さん(第9回1990年)以来の快挙。諏訪内さん、コンクール優勝当時の音って確かに技術的には素晴らしいし表現技術や音の響かせ方とかってとっても上手いとは思いましたけど、私はあまり好きじゃなかったんですよね。でも、最近の音は何というか、角が取れたというか、熟成した音というか、つまりは人間的にも色々な事を乗り越えて成熟したという事なんでしょうけど、とてもいい音だと感じています。
 今回優勝した神尾さんの音がどういう音なのか、私はまだ聴いた事ありませんけど、既に名前の通った演奏家のようですから(既に10代半ばでデビューされているようですから)、機会があればお聴きしたいと思っています。
 と、ここまではおめでたいお話なんですが、ここまで書いて手元にあっ通訳協会の学習会スケジュールを見ると、もう何というか、「何を学ぶ必要があるのか」というのがホントに判っているのかと疑いたくなるようなスケジュールなんですよね。
 そもそも、通訳協会の学習会は技術的な学習と、理論的な事や通訳者としての対人支援能力の向上などの為に(通訳)問題についての学習を、しかも、それぞれの立場(仕事をしている人だとか、主婦だとか)を考慮して月に二回、昼と夜とをそれぞれ変えて、学習会を開いていました。それが今回のスケジュールを見ると、技術学習に偏重した計画になっている上、昼の学習と夜の学習の回数がバランスしていないというもの。これで、1/2の出席を義務化し、それに足りない場合はレポートをというのはどうにも配慮に欠けたものではないでしょうか。こういう事に気が利かないというのは、問題意識が欠如し、周囲に気配り出来ない状態の現れであり、それはつまり、「通訳問題」の学習が足りない結果ではないかと思うんですけどね。
 音楽の世界でも同じで、大学時代、声楽を専攻していた知人がいましたが、とてもよく声も通り、綺麗な声で、技術的にも表現力のあるのは確かでしたが、それ以上のものを感じられないという女性がいました。結局彼女に足りなかったのは、その曲に込められた思いを理解し、それを自分のものにして伝えるというメンタルな部分の成熟が出来ていないというものだったんですよね。
 技術偏重で、意識や問題といった事が等閑になってしまうというのは実はとても怖い事だと私は思っています。特に、手話通訳もそうですが、表現するという事に関わる場合や、対人支援のように人と関わるという場合、その根本にあるモノが欠けていたり十分でなかったりする事の方が技術が未熟である事よりも重大事だと思うんですよね。あるベテランの専任通訳者と話していた時にも「技術なんて後からついてくるもの」という事で意見が一致したのを覚えています。
 本当に大切なものは何か。それは何処にあるのか。それを考える力こそが全ての根底に必要な事ではないのでしょうか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

伝えるという責任
DSCF7266.jpg


 一時雨。のち曇り時々晴れ。 月齢15 十六夜

 朝方、突然かなりの勢いで降ったかと思うと、唐突にやみ、その後はジメジメと茹だるような暑さ。この雰囲気はもうそろそろ梅雨も終わりって事でしょうか。

 ここのところホントに暗いニュースばかりで、ここで取り上げた事もかなりくらい内容ばかりになってしまってますよね。で、今日は少し趣向を変えたいと思って、ニュースを色々見てたんですけど、そうすると、通訳協会の事務局からお手紙。中を開けてみると、学習会に使った資料だとか、5月度の理事会の報告だとかが入っていました。
 理事会の内容も気になってみてたんですけど、どうにも未だ引き継ぎの内容だとかがメインで大きな議事があった様子ではなさそうでした。でも、検討しないといけない課題は山積みだったんじゃなかったっけ?
 そうそう、制度外派遣の報酬に関しての話し合いがあったみたいで、制度外派遣の際には従来は1,400円/時間とし、差額を協会へ寄付という形で上げて貰っていたものを、今後は寄付を無くして全額通訳者が受け取るという事になったようです。これ、じゃ、請求出来なかった場合の通訳は報酬無しって事なのでしょうか?そもそも、請求出来ないような場合や出来ても少ないなどの場合の事を考えてプールしていこうというのが差額を協会が寄付という形で貰うという事の意味性であった筈なんですよね(それと、協会独自事業に必要な経費や事務費という意味合いも含みますが)。では、今後はそういう事はしないという事なんでしょうか。つまりは、制度が適応出来ず、それでいて、費用請求出来ないようなケースには通訳を派遣しないという事なのでしょうか。
 それと、学習会の資料の中に、総会の際(とその後の議事録への質問の中で)に指摘した「役所と協会の契約の中で『協会が派遣事業を第三者に委託もしくは請け負わせる事は出来ない』となっているのに、ガイドブックでは協会と通訳者の関係を『委任契約(請負契約)』と表現しているが、契約に反しないのか?」との問いへの回答として、書かれた文章があったので、読んでみたのですが、どうにも結論がどうなったのかが読み取れないんですよね。何度も何度も読み返してみたのですが、何度読んでも最終的にどうする事になったのかが理解出来ないんですよね。これ、つまりは私が頭悪いからっていう事なんでしょうね。きっと学習会に参加された方は意味がきちんと理解出来たんでしょうね。素晴らしい。
 テキストであろうが音声であろうが、「伝える」という作業には結論として「何を伝えたいのか」が正確に対象者に判るという事が大切なんだと私は理解しています。ですから、まずは結論がどうなのかがどういう形で明示されているのかというのはとても大切な部分なんですよね。これ、学生にレポートの書き方を教える時にも言っている事ですが、結論の判らないレポートなんて書くだけ無駄なんですよね。自分はどう思ったのか、現実にはどうなっていたのか、それはどうあるべきだと思うのか、それにはどうすると良いと思われるのか。こういった事をちゃんと整理して書くというのが大切なんじゃないでしょうか。ましてや、「伝える」という作業を専門的にしている通訳者の団体ですから、そういった事(内容が明確に判る)が出来て当たり前なんじゃないでしょうか。
 「最後の結論まで言わないのが日本の良き伝統だ」なんて言う人が時々いますけど、それは、最後まで口にする必要がないという環境だったからで、言わなくても最後の結論は解り合えていた訳ですよ。それはどうしてかというと、共通の概念、共通の認識、共通の経験を通して相互に何をどう捉え、どう考え、どうしようとするだろうかというのがお互いに判っているからこそ、最後まで言わなくても解り合える訳ですよね。で、そういう関係の構築が今の通訳協会の中で出来ているのかというと、残念ながらかなりほど遠い状態じゃないかと思うんですよね。
 よしんば、言わなくても判る関係が既に構築出来ているとしても、文章化して、残すものであれば、それを読んだ人(たとえコミュニティに入っていない人であっても)に正確に伝わる事を考えなければいけないのではないのかと思います。
 こういう事を見ても、今の手話通訳協会の実力というのが推し量れる訳で、手話単語の表現云々以前に、伝える事についての理解と注意が十分身に付いていないという事ではないでしょうか。
 実は、手話通訳者の日本語能力にはかなり怪しいところがあって、それ故「私読み取り通訳はどうも苦手で……」と言い逃れをしてしまう事になっているように思います。このあたり、私も府の通訳者養成の講師をしていた時から指摘している事で、通訳者養成講座に日本語の学習時間を取り入れるべきだと言っているのですが、いっこうに変わる気配はありません。聴者は日本語が出来て当然なんて言う神話は全く当てのはずれた話で、日本語は使っていても意識的に学習している訳ではないので、通訳者のレベルとしては全くなっていない人が大半なんですよね。そういう人にいくら手話を教えたからといって正確に伝える事の出来る通訳者になんてならないのですけども。
 結局楽しい話題にはならなかった今回のエントリーでした。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

じゃ、被害者の人権は?
DSCF7267.jpg


 曇のち雨。 月齢14 十五夜

 母子殺害事件の遺族、本村さんは、集中審議の3日間を「聞くに堪えない3日間」と評しています。殺害の現場で本当にあった事を知っているのは亡くなられた被害者二人と、殺害した被告の3名だけ。密室で起きた事だけに目撃者もなく、被害者は既に亡くなられている訳で、被告が本当の事をいわない限り、「一体ホントはどうなっていたのか」は永遠に闇に葬られてしまう訳ですよね。それだけに、今回の集中審議で、1審2審を完全に無視するような全く従来と整合しないいい訳の数々が腹立たしく思えます。被告は結局人の命なんてなんとも思っちゃいなかったのでしょうし、なおのこと、弁護団に亡き被害者の尊厳なんて考えていないという事が見えたように思います。
 おそらく被告の証言は弁護団によって作られた台本に従っている(だからこそ、弁護団が動機に関して説明する際に「ストーリー」という言葉を多用したのでしょう)のでしょうが、それらは完璧なものではなく、ほころびを沢山備えたもののようです。そうでないとしても、最高裁に至までの審理を無視したような言い口はそれが法を守る人の行為だとは思えません。
 法廷で本村氏と目が合った際、本村氏を鋭い眼光で睨めつけたんだとか。法廷で話している事は荒唐無稽の訳の判らない事のようですが、検察や裁判官の質問への返事の様子からは常軌を逸した人間の非論理的な点が見受けられないように感じます。むしろ、論理的で非常に狡猾な返事をしているのではないでしょうか。
 少年法は少年であるという一点で加害者の人権や将来を守っています。では、被害者や被害者の家族の人権は誰がどうやって守ってくれるのでしょうか。被害を受け、自分の意思や運命とは全く別に無理やりその人生を中断させられた人の人権はどうなるのでしょうか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

母子殺人事件のやり直し控訴に思う
DSCF7259.jpg


曇。 月齢13 小望月

 どんよりとジメジメとした一日。
 まつぼっくりさん、いつもコメントありがとうございます。といっても、いつも私信扱いというか、管理人にしか見られない設定でのコメントなので、他の方にはお判りではないと思いますけど。出来れば管理人以外にも見える設定でコメント頂くと嬉しく思うのですけれど。
 プロフィールに貼ってある写真は、「ニワセキショウ(庭石菖)」というアヤメ科の花です。北アメリカ原産の5ミリ程度の小さな花で、青や紫、白といった色がありますが、私はこの白が気に入っています。結構群生してるんですよね。

 山口県光市の母子殺害事件の差し戻し審が始まっています。それにしてもここに至って被告と弁護団の言い分が従来とは違う方向に向かっているのは余りにも亡くなった人に対して侮辱的で腹立たしいものです。
 「殺意は無かった」「頭を撫でてもらいたかっただけ」「投げつけたのではなく、落ちてしまっただけ」「(死亡後姦淫したのは)復活の儀式だった」「押入れに入れればドラえもんが何とかしてくれると思った」これらは弁護団からつけられた知恵というか、いい訳にしか聞こえてきません。事実、検察側から矛盾点を指摘されると苛立ったような表情をしたり、助けを求めるように弁護団を見たりしていたようです。21名もの弁護団は死刑廃止論者で、最高裁が差し戻した方向としての死刑に異議を唱える為に弁護団になり、この事件の事実をねじ曲げようとしている様にしか思えないんですよね。これは亡くなった人、遺族、そして法廷を侮辱する行為でしかないのではないでしょうか。
 弁護側の狙いは、あくまでも死刑の廃止にあるのではないでしょうか。1審2審で認めていた事も全て覆し、「赤ちゃんを抱いているお母さんに無性に甘えて頭をなでてもらいたいと後ろに回って抱きついた。性的なものは期待していなかった」などと言い、上記のような常軌を逸したような発言を繰り返す事で、精神状態が普通ではなかった事や犯行の動機が常軌を逸した精神状態から来るものであるかのように見せたいのでしょう。
 でも、こういうパフォーマンス(にしか思えないのですけど)って、結果として死刑廃止論者側のイメージを低下させる事になるだけで、何ら良い結果を生まないように思います。「犯罪者であっても人命は尊いもの」というのが彼らの主張ですが、では、その「尊いもの」である人命を無理やり奪うという行為をしたものにふさわしい罰とは何なのでしょうか。少なくとも現在の日本のように「無期懲役」といっても現実には20年程度で出てくるという事では尊い人命を奪った罪としては相応ではないと思うのですけれども。死刑廃止論をどうこういう気はありません(個人的には死刑を廃止する必要はないと思っていますが)が、今回の場合、せめて亡くなられたお2人の本来なら生きるであろう平均寿命までの年月を足した程度は懲役刑として減刑なしで全うしてもらうべきでしょうし、アメリカのように懲役刑を足して「懲役300年」とかっていう様なシステムにするべきではないでしょうか。
 この21人もの弁護団の「弁護士先生」達ですけど、この人達に「先生」という称号を付けるのって違和感というか、不快感を感じるのは私だけでしょうか。これだけの弁護団を雇うっていうのは費用的にも大変な事になるでしょうから、おそらく無償、若しくはかなり低額で弁護を引き受けているのでしょう。その狙いは、自らの主張である「死刑廃止」にある訳で、彼らにとっては被告でさえ主張を展開する為の道具程度にしか見えていないのではないでしょうか。卑怯で下劣な行為。私にはそう思えます。
 ある意味、死刑よりも100年以上の懲役刑の方が辛いものかも知れませんね。その間に更生教育を施し、自分が犯した罪の本当の意味を思い知らせた上で減刑無しの100年以上の懲役は毎日自分の犯した罪を意識しながら生きなければいけないという事になる訳で、死刑を廃止にするのなら、これくらいの事はするべきではないでしょうか。それと、よく判らないのが刑の減刑なんですよね。裁判で決められた刑期を満了しなくても、刑の執行中の態度が良かったり反省の色が見られたりすると刑期が短縮するっていうのもなんだか違和感があります。本来は、自らの犯した罪をちゃんと理解した上で刑期を務める事こそが刑罰だと思うんですよね。ですから、私には「減刑」というのがホントに良い事なのかどうか判りません。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

官製ワーキングプア
DSCF7237.jpg


 晴。月齢11 十二夜

 ミートホープによる牛肉偽装事件からこっち、コムスンの話題が霞んでしまったような状態になっていますけど(事実、一時期ほど新聞に『コムスン』という字は現れていませんし)、方向性としてはどうやらワタミが「民間事業者の質を高める」全国介護事業者協会(民介協)と共に一括譲渡、施設事業をワタミが担当し、在宅介護事業の部分を民会協加盟の事業所が担当するという方向が整理されてきているようですが、「果たして『ワタミ』なら大丈夫なのか」。もうちょっと背景を見てみる必要があるような気がするんですよね。
 ワタミはグッドウィル・グループと比べると遙かに優良企業だと思いますけど、それでも、根幹の飲食部門が昨今売り上げも収益も落としてきていて、それに変わる分野として注目されていたのが介護事業なんですよね。ワタミの介護事業の中心は、いわゆる施設介護といわれる部門で、有料老人ホームを中心とする事業で、関東圏を中心に現在28棟の有料老人ホームを擁し、2020年には1,000棟を目指しているんだとか。ワタミの介護事業が好調で事業収支も健全な理由は、ひとえに「施設介護に特化した経営であるため」と見て良いのではないでしょうか。
 厚労省は介護保険開始時に、「施設から地域へ」というスローガンを掲げて、在宅介護を中心とした高齢者福祉を目指すとしてきましたし、それ以降実際に施設の建設には制限が課せられていたり、医療機関の入院期間にも制限が課せられていて、よほどの特例でない限りは入院から3ヶ月で退院をさせられるという状態になっています(つまり、それ以降は在宅でということになるわけです)。ヨーロッパでもイギリスなどはいち早く施設福祉からの脱却を目指して脱施設という動きを全体的に進めていて、これは障害福祉に関しても徹底されてきています。在宅でも十分なケアが受けられるような体制も十分に整えられていて、24時間態勢で支援を受けられます。また、知的障害者のグループホームなども充実していて、大きな成果を上げてきています。が、日本ではそれと同様にサポートを受けられる体制が整っているかというと、全くお粗末な状態で、在宅介護は介護を受ける当人にも、そして家族にも大きな負担を強いています。
 当初、在宅介護に大きく舵を切った理由の一つは、かさみ続ける施設維持費を減らし、国の費用負担を減らすという事もあったようですが、在宅介護を中心に据えた介護保険の導入すると、「措置とは違って当事者が主体となって選べる」という事で、利用者が増え、狙いとは逆に国庫負担は象対する傾向になりました。
 給付費を見ても、開始初年度は3.2兆円だったものが、04年には5.5兆円へと増えていますし、25年には20兆円に達するのではないかとの見通しさえ存在しています。それ故、昨年度の制度見直しでは、要支援の細分化と、要支援認定者のサービス選択制限や介護予防に関する定額制の導入、事業所への報酬額の減額などが盛り込まれていて、今後はそれらに加え、障害福祉の介護保険への組み入れ、利用内容の制限、二号被保険者の年齢の見直しなどが見込まれています。
 一方、施設介護に関しては、地方自治体が介護支出の増加抑制の為に施設建設を抑制する事でむしろ市場の需要が供給を越える状態になり、施設経営は収益の上がる事業になっていった訳です。財政負担となると見て舵を切ったのに、そもそもそのかじ取りの原因となった施設事業が収益性の事業になった訳で、これは大いなる皮肉といえるんじゃないでしょうか。
 コムスンの事業の大半は収益性の悪くなった居宅介護事業で(といっても制度開始時には居宅介護の収益性も悪くはなかったのですけど)、ワタミが介護事業で成功したのとは全く違った道を歩んだ事がうかがわれます。つまり、ワタミは収益性の良い事業をしてきたからコムスンのような事をする必要がなかっただけなのかも知れないという事も考えておかなければいけないのではないかという事なんです。
 コムスンを始めとする介護事業の現場では非常に過酷な就労環境が当たり前のような状態になっていて、その上、報酬も低いという状況で、若い人が夢を持って仕事をするというのが難しい状況にあります。これらは、介護報酬を厚労省が自分の懐事情を元に引き下げ続けているからです。いわば、行政による「官製ワワーキングプア」といえるのではないでしょうか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

無責任甚だしい人だね
DSCF7205.jpg


 晴のち曇。 月齢10

 ミートホープ社の牛ミンチ偽装事件ですが、田中社長は「私が一番悪いが、安さを求める消費者にも責任がある」と大暴言をはいています。この人、ホントに反省なんてしてないんでしょうね。
 消費者が安さを求めるのは、当たり前の事。企業側が企業努力としてコストを落としたり、付加価値を付ける事で割安感を出すというのは当たり前の事ではないのでしょうか。消費者も無茶な安さなんて全く求めていません。どんなモノにも妥当な線というのがあるのは判っているんですよね。そんな中で、ミートホープ社は他者の半額近くの安値で入札していた事実を見ると、市場の常識を無視した安値を自分でつけていたという事じゃないのでしょうか。その結果、豚肉や豚の内臓、鶏、カモなど、おおよそ牛肉とは縁のないモノを入れて偽装しなければ出来ない状態を自ら招いておいて、その責任を消費者にお仕着せようというその性根は一体どうなっているのでしょうか。調べた結果、この会社、産地偽装、原材料偽装、賞味期限偽装、その上、肉に水を注入して重さを偽装していたんだそうです。
 強制捜査後の記者会見で、「こういう事は初めてのもので、最初は生意気に見えたかも知れませんがお赦し下さい」と言ってましたけど、初めてなのではなく、罪の意識そのものがなかった(と言うか、悪い事をしているという自覚さえ無かったから)ので、「なんで俺がこんなに責められなきゃいけないんだ」と思っていたという事でしょう。
 ミートホープ社は当面休業するそうで、「再開の目処は立っていません」と田中社長は言っていますが、客観的に見て、これほどまでの事件を起こしてしまったこの会社、取引先への賠償等だけでもとんでもない負債で、そう簡単にはいかないと思いますね。その上、この田中社長が経営陣として残るとするなら、体質は変わらないでしょうし、今後も同じ事をしかねないと私は思いますね。田中社長、本当に会社が大切だと、従業員が大切だと思うのなら、即刻退陣されるべきですね。
 以前にも書きましたけど、この田中氏を見ていると、グッドウィル・グループの折田氏を連想させるんですよね。両者に共通しているのか、ワンマン経営を進めてきた人である事と、コンプライアンスなんて事よりも、営利追求意識の方が強く、責任の所在を他人に転嫁する事に終始している様子。そして何よりも、心の底では自分が悪かったなんて全然思っていなくて「ちぇっ、見つかっちゃった。今度はもっと上手くやらなきゃ。」と思っているだろう様子ですね。
 ミートホープ社の記者会見の席で工場長が記者から「どうして社長に注意しなかったのか」との問い掛けに対して「雲の上の人ですから」と答えていたのは、この社長が如何にワンマンで強引に経営をしていたのかというのが見て取れます。この様子、折口氏と解雇されたコムスンの社長の様子に似ているように見えて仕方ないんですよね。コムスンの社長はそんな事口にはしませんでしたけど、その様子からおそらく「自分が罪をかぶって…」といった事を考えていたのではないでしょうか。当の折口氏は、「今後ガバナンスの強化を図り…」なんて事を言っていた訳ですけど、ガバナンス(正確には「コーポレートガバナンス」の事で、日本語訳では「企業統治」という言葉が充てられていますが)を強化する為には従来のグッドウィル・グループやミート・ホープのようなワンマン経営ではダメだという事を十分に理解しているのでしょうか?

 参議院選が延期になった事以外にも候補者の事でも色々と話題になっているようで、某局の女性アナウンサーだとか、桜パパだとか、色々な人が立候補を表明し始めています。その中には、ヤンキー先生こと、前教育再生会議担当室長の義家弘介氏(36)が自民党から参議院比例区候補として出馬するんだとか。これとは逆に、現職の大仁田厚氏は立候補を辞退する意向を示しています。別に誰が立候補しようと構わないけど、候補者そのものよりも、そういう有名人候補を擁立しないと戦えない政党っていうのがどうも情けなく見えてきますね。
 一体、いつから政治がエンターテイメント化しちゃったんだろうね。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

参議院選挙は延期なんだって
DSCF7239.jpg


 雨。 月齢9 十日月

 梅雨らしい雨が朝からずっと降ってます。ま、梅雨だからね。

 安倍首相の鶴の一声(わがまま?)から、当初22日投票の予定だった参議院選挙が29日投票へと延期になった訳ですが、この影響って各方面に出ているそうですね。
 29日、7月最後の日曜日という事で、お祭りだとかイベントが組まれていたりっていう地域が多かったようですが、ところによっては延期だとか中止になったところもあるんだとか・・・。
 また、既に投票所の使用予約が入っていて、投票所の確保が出来ないとか、投票所は何とかなっても開票所が確保出来ないとか、様々な問題が出てきているんだそうです。こういうはた迷惑な変更って、どう考えても阿部さんの延命措置というか、自民党の人気取りという感じで、安倍さんの言う「国民の為に決めるべき事を早急に決める為に…」なんて言うのはとっても胡散臭いというか、虚しく聞こえてしまいますね。
 本当に大切な事ならどうして事ここに至まで放ったらかしにしていたのでしょうか? 本当に重大な意味があるものならどうして短時間の議論だけで強行採決なんて手段に出られるのでしょうか? 本当に自信のある案で間違いないものならどうしてもっと周知させて検討させないのでしょうか? 自民党は「100年安心」の制度改革なんて言って年金制度の改革をしたわけですがあれはいったい何だったのでしょうか。
 今国会で強行採決した案件は現時点で既に19件に上っています。「多数決は民主主義の大原則」と、数にモノを言わせるやり方は、まるで合法的な集団レイプのように感じるのですけれど、どうしてなんでしょうね。
 参議院選挙の結果、議席数が過半数を切ると、過去の例からも安倍政権はそれで終わりっていう事になるでしょうね。今のところ、それでも中川幹事長は過半数我でも首相に責任はないといっているようですが、これこそが自民党の弱気が現れている言葉で、半数を下回る可能性があると思っているって事ではないでしょうか。ま、ね、最近の自民党の傲慢ぶりを見ていると、一度野に下るべきだとは思うんですけどね、だからといって民主党もねぇ…。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

伝える事の難しさ
IMG_9165.jpg


 晴。 月齢8 弦月(ゆみはり)

 実は、IMのハンドルネームが男性か女性か判らないものを使っている為か(性別の記載をすれば良いだけなんだけど)男性からの間違いメッセージが時々飛び込んできます。別に、男性からのメッセージが嫌だという訳ではなく、話題が噛み合う人なら構わないとは思っているんですけどね、何だかもういきなり挨拶もなくこちらが女性である事を前提に下ネタを全開で始める人がなんと多い事か。下ネタに走るっていうのは、もしかしたら「男」という動物の悲しい性なのかも知れませんけど、挨拶もなく唐突にっていうのが何ともコンビニエンスというか、単純明快というか、この人たち、とりあえず礼儀というのもは持ち合わせていないのだろうかと疑ってしまいますね(ま、きっとお猿さん状態なんでしょうから「動物」状態な訳で、「人としての礼儀」なんてないんでしょうけど)。色々な意味でこういう人たちって興味深いので、「観察」してみることもあるわけですが、どうにもこうにもこの人たちの殆どは勘違い甚だしい人たちなんですよね。例えば、こちらが女性で、現実の社会なら確実にセクハラになるような事を平気で口(文字?)にしておいて、それがセクハラではないのかと指摘(厳密にはこちらは女性ではないのでこの場合はセクハラには該当しないんだけど)すると「言論の自由だ」と訳の判らない暴論を振り回そうとする訳です。当然ですが、「言論の自由」の意味さえ理解出来ていないような人がそういう「間尺に合わない」言葉を使って理論武装しようとすると、言ってみれば使い切れない重いバットを振り回しているようなものなので、当然空振りしまくりになるんですよね。で、それが間違っている事を指摘すると、「どんな事をしようが俺の自由だ」なんて今度は理屈の通らない事を言い、「自由を履き違えている」と指摘するとこんどは「自由を説明してみろ」と、まるで子どもの屁理屈状態に陥っていくんですよね。ミスタッチが増えたり、誤変換が増えてくる様子から、おそらくネットの先で顔を真っ赤にしてぶるぶる震えながらキーを必死に叩いているだろう相手が想像出来て相手してる分にはとてもおもしろいのですが、それにしてもそうやっていて思い至るのは、彼らはこれほどまでに便利で高度に発達したコミュニケーションツールを使いこなしているように見えて、実は、コミュニケーションそのものは至って幼稚というか、コミュニケーションの術そのものを知らないのではないかという事なんですよね。
 他人との関係性の確立していく順序というか、段取りというものを知らないので、挨拶というとっかかりがまず出来ない。挨拶もなしにいきなり自分本位に話し出すものだから、いったい何を言いたいのかが伝わらない。伝わらない状況を感じて、相手を罵倒し始める。それを論理的に反論されると言い返せないので、感情的な罵声しか言い返せない。もしくは、よく知りもしない小難しい理屈で理論武装して反撃に出ようとするが、そもそもその理屈が理解出来ていないので自爆してしまう。これは何とも悲しいというか、寂しい話で、こういう事って小学生のレベルだと私は思うんですよね(あ、もしかしたら年齢詐称しているホントの小学生なのかも知れないけど)。
 相手に伝わらないコミュニケーションは話者の能力的問題だと私は理解しているんですよ。だから、そもそも、共通理解や共通認識を持たない相手に対して主語も目的格も明確に提示しないで単音節文で話しかけられても理解出来ないなんて当たり前だと思っているんですよね。これ、この人たちのコミュニケーションの特徴的な部分です。つまりこういうのは、自分はよく判っているから相手も判っていて当然だという思いこみから成り立っている訳ですよ。そんなの判りっこないのにね。
 それでそのことを指摘すると、彼らはそこで逆ギレしてまたまた訳の分からない小理屈を並べ立てようとするのですけど、結局はそれにも失敗、徒労に終わってしまう訳です。
 この人たち、おそらくIMを便利で手軽な無料の出会い系サイトとしか見ていない様子で、偏った期待というか、指向の偏向性が見て取れるように思いますけど、MIって、単なるコミュニケーションツールで、いってみれば悪戯電話をしているのとたいして変わらないっていう事、判ってないのかなぁ。
 ただし、電話以上にオープンなコミュニケーションツールなので、知らない人と繋がりやすいという事はあるのでしょうけれど、それでも挨拶もなしにいきなり下ネタ、エロ話っていう神経は尋常ではないという気がするんだけど、きっとネット内のバーチャルな場所だという事で、モラルが低下してしまっているんでしょうけれど、そういうモラルの低下は最終的に現実世界にも波及してくるのじゃないでしょうか。

 コミュニケーションの難しさという点で思い出した記事があります。NBオンラインに登録されている方は見て頂くと参考になると思うのですが、昨日付の「まっすぐに見ているか、まっすぐに聞いているか」という記事(http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070620/127874/)で、これ、某高校の校長をされている荒瀬氏の文章です。教育問題のマスコミによる表現に関する記事で、荒瀬氏自身が受けたインタビューの取り扱いが、自信の予想していたものと違っていた事に関して荒瀬氏が感じた事がかかれているものです。その中で荒瀬氏は養老孟司氏の「取材なんかで、そんなふうに言った覚えはないとか、そういうつもりで言ったんじゃないとか言う人がいますが、そんなことは意味がない。相手が受け取った通りに言ったんだ、むしろそう思うべきだ。」という言葉を紹介し、自身を諫めています。
 コミュニケーションとは、相手に自分の思いを伝える(あるいは相手の思っている事を受け取る)という作業で、正確に伝わっていなければそれは伝え方に問題があったという事になります。「私は話すのが苦手なので、言いたい事がどういう事なのかは察して欲しい」といった言い訳は相互の親しい関係の中でこそ成立するもので、それは相手がどういう人で、どういう事を日頃思っているのかを知っているからこそ、正確に予測出来るから成り立っている関係だという事を覚えておかなければいけないんですよね。つまり、そういう親しい関係ではない相手には出来るだけ性格に、具体的に自分の思いを伝えるための努力をしなければいけないというのが、コミュニケーションの原則なんじゃないかと思う訳です。
 と、ここまで書いて思い出したのが、「通訳の英語・日本語」の中で著者小松達也氏が例として挙げている通訳史に残るシーンとして、ヴェルサイユ講和会議の際の伝説的通訳者アンドレ・カミンカーの逸話です。
 当時、まだ音声言語通訳の中心はフランス語で、国際会議もフランス語で進められるのが慣例となっていました。第一次世界大戦で英語が公用語として認められ、大戦中の会議に参加したアメリカ代表団やイギリス代表団のフランス語の判らない人の為に仏語と英語の両方の解る外交官が通訳を務めた訳ですが、終戦後のパリ講和会議では外交官が通訳をするのではなく、専門職としての通訳者が仏語-英語間の逐次通訳を担当します。
 当初は3〜4分程度の細切れの逐次通訳だったものが、演説の中断を嫌い、30〜1時間という長いターンの逐次通訳になっていったそうです。その会議で1時間を越える演説を逐字通訳したアンドレ・カミンカーに対し、話者は「今の通訳は私が言った事と少し違うのではないか?」と問うと、カミンカーは「私が訳したのはあなたが言った事ではなく、あなたが言うべきだった事だ」と答えたそうです。
 このエピソードが伝える事は、色々な意味や教訓を含んでいる訳ですが、我々手話通訳者には考えられない事で、この話が音声言語通訳者の中では伝説と化しているのはどうしてなのか、もう少し色々調べてみたいと思っています。

あ、最後に付け足しておきますが、決して「ネカマ」が趣味ではありませんので、誤解の無いように。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

厚顔無恥の見本は政治家なんだね。
IMG_9166.jpg


 雨。 月齢7 上弦の月

 今日は夏至。一年で一番太陽の出ている時間が長い日だった訳ですけど、朝からずっと雨が降っていて結局今日は日照ゼロでした。沖縄は梅雨明けしたんだそうですけど、こちらでは今日からがどうやら本格的な梅雨なんだとか(とか言いながら明日は晴だって予報ですけど)。
 明日からは日出から日の入りまでの時間が短くなっていく訳ですから、これからどんどん暗くなる時間が早くなるって事ですね。

 北海道の食肉加工会社ミートホープが100%牛肉と偽って豚肉や豚の心臓などの内蔵、カモ肉等を混ぜて売っていたという偽装工作事件で、取引先の大手食品メーカーが大打撃を受けているようです。この会社、給食などにも卸していて、まだまだ波紋が広がるようですけど、この会社の社長、大胆というか、問題意識が無いというか、記者会見の場でさえも薄笑いを浮かべていたのがなんとも気持ち悪いというか、怖いというか…。
 「コストを抑えることを優先した」というような事を言っていましたけど、これはつまりこの社長が「食の安全」を全く考えていないという事を表しているんじゃないでしょうか。また、記者会見の席上でさえも自らの責任をごまかそうとして曖昧な返事をしてみたり、部下である工場長にその責任を擦りつけるような発言をしたりと、総責任者としての自覚さえ無いのではないかと思いますね。この人の記者会見を聞いていると、どうしてもかぶって見えてくるのがグッドウィル・グループの折口氏なんですよね。2人とも社会的な責任というモノが全く理解出来ていないのではないかと思えてきます。
 ミートホープ、社長は「会社の為に」(というのがホントかどうかは判りませんが)偽装工作をしていたようですが、取引先大手にこれほどの損失を与えてしまったのですから、この会社に将来はないのではないでしょうか。グッドウィル・グループにしても、コムスンだけの問題に留まらず。グループの根幹を成す人材派遣事業にも必ず大きな影響をもたらすでしょう。もしかしたらグループ全体の経営にも影響を与えるかも知れませんね。
 こういう厚顔無恥というか、自らの立場や担っている責任を理解出来ていない人って、政治の世界にも沢山いるようで(と、今更そんな事いうほどの事じゃないでしょうけど)、自民党の衆議院議員、中川泰宏氏(京都4区選出)は、自宅を不動産登記していない等で固定資産税が課税されないままに母屋に至っては18年間もそのままだったんだそうです。また、この自宅、どうやら建築確認申請をしていなかったようで、違法建築のようです。この人、1992年から10年間町長を務めていた人で、つまりはその期間中も固定資産税を払っていなかったという事なんだそうです。酷いというか、呆れる話で、この人は一体何を考えて政治家になったんだろうかと思っていたら、三重県の川越町の町議会議員、飯田勝祐氏は早朝、一人で寝ている女子中学生の家に侵入し、布団に潜り込んで身体を触り、強制わいせつ罪で逮捕、その後告訴取り下げで不起訴処分となったそうですが、町議員は辞めず、飯田氏を除く全員一致で可決された辞職勧告決議案に対しても、「犯罪にはならなかったのだから辞める理由はない。任期を全うするのでよろしく」と拒否しているんだそうです。
 何が凄いって、不起訴になったから自分は罪を犯していないんだというこの論理展開。この人の頭の中は一体どうなっているんでしょうか。単に不起訴(告訴取り下げ)になっただけで、罪に該当する行為が無かったという事にはならないんだよね。この人がした行為は罪には問われなかっただけで、人として恥ずかしい事をしたという事には間違いないんだよね。こういう人が政治家でいるっていう事がどうにも信じられないし、政治に対する不信感を増長する原因なんじゃないでしょうか。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

報道の倫理とは?
DSCF7236.jpg


 晴。とてもいい天気。 月齢6 弓張りの月

 今日はお休みで予定も特段入っていない珍しい日だという事で、朝から新聞に普段より少しゆっくり目に目を通している時になった記事がひとつ。
 家は産経新聞なんですけど、今日(6月21日)の朝刊に『枚方市長「追っかけ」の日々』という記事(というか、コラム)が載っていました。ま、地元の事なので気になって読んでみると、枚方市の官製談合事件に関わって、中塚市長の追っかけをしているとの事で、その様子を書いてあるのですけれど、何というか、傍迷惑この上ないと思っている私にすると癇に障るような記事。
 記者氏は『7時前になると、報道各社の黒塗りの車が続々と市長の自宅周辺に集まり記者やカメラマンが市長が出てくるのを待ち受ける。(中略)「敵」もさるもので、信号が赤になりかけるとゆっくりとカーブを曲がったり…(中略)…そんな「カーチェイス」は市長が夜、市役所から帰宅する際にも繰り広げられる。(後略)』と、その取材の慌ただしさというか、移動時に振り切られないようにゾロゾロと沢山の記者達が追いかける様子を書き綴っている訳ですが、この「黒塗り」達が待機中にどういう状態かっていうのをもう少し考えた方が良いんじゃないでしょうかね。待機中の黒塗りは道を占拠し、エンジンをかけっぱなしで周囲に排気ガスと廃熱を垂れ流し、不法占拠した道路は通行し難くなり、事件とは直接関係のない周辺にどれだけ迷惑をかけているのか、そういう事を考えた事があるのでしょうか。
 以前、毎日新聞の例をあげて黒塗りの車(取材車両)が邪魔で仕方がないという事を書きましたけど、産経新聞の「産経新聞グループ社員行動規範」の中にも、環境問題等への取り組みとして、「1.私たちは、資源の有効活用や省エネルギー等を推進し、環境の保全に努める。」と書かれています。社会的な流れとして、アイドリングストップや出来るだけ自動車を使わないというのが省エネや環境への取り組みとして注目され、また、実際に行動している人達が増えている中で、ああやって黒塗りの車両を列を成して待たせておく必要性というのがどれ程あるのでしょうか。しかも、どれもがタクシーであったり、高級車であったりと、無駄にガソリン(タクシーはLPガスなんでしょうけど)を燃やしている事に罪悪感を感じる事はないのでしょうか。アイドリングで消費するガソリンは、おおよそ10分で10キロを走行出来る量だといわれています。朝9時から夕方6時まで市庁舎脇に止めてアイドリングしているとすると、時間にして540分。おそらくほぼタンクいっぱいの量を一日で無駄に燃やしてしまっている事になるでしょう。それが10台前後の数ですから、市庁舎横で毎日のようにドラム缶約3本分のガソリンが「燃やされ」ていて、そこから出る一酸化炭素を中心にした排気ガスと多量の廃熱がまき散らされている訳です。この事実と「環境問題等への取り組み」はどう整合するというのでしょうか。
 福知山線の事故の際に、某メディアの記者がまるで「我こそは正義の代表者だ」とでも言うかの如くJRの役員を怒鳴っていた事がありましたが、これ、自分が誰で何をするべき立場なのかを履き違えている代表だった訳ですけれど、この産経新聞の記者氏も同じように履き違えてはいないでしょうか。「報道の自由」や「知る権利」を錦の御旗に、その為にはどんなことでも許されるのだとでも思い違いをしていないでしょうか。この破廉恥極まりない記事を読みつつ、私は昨今の記者のレベルの低さやそれを何の躊躇もなく掲載してしまうメディアのていたらくぶりを感じます。
 確かにね、官製談合に市長が関与していないかどうか、巨悪が存在していないかどうかを見極め、出来るだけ正しく伝えるという事はとても大切な事ですが、その為には何もかも許されるなんて事はないのだという事をもっとよく考えて頂きたいものです。メディアには社会に対する規範としての責任が存在しているのではないでしょうか。




テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

教員免許、更新制へ
DSCF7202.jpg


 曇。 月齢6 上弦の月 弓張月

 今日もとてもいい天気(?)。梅雨入りしてからまともに雨が降ったのは梅雨入り初日くらいじゃなかったかな? ホントに琵琶湖、大丈夫なんでしょうか?

 文科省が中教審に教育関連3法の改正案概要を提示したようです。これによると、教員免許を有効期限10年とし、更新時には30時間の講習を受けないといけないそうです。教員免許の更新についてはそれ程異議はありません。ただね、どれだけ意味があるのかっていうのは少し懐疑的ですけど。某教授は、「時代の変化に対応する資質を育てるのであれば、10年では遅い。」としていますけど、「10年に1度の30時間の研修」というところだけ見れば確かにそうですよね。でもね、学校の先生方の研修って結構頻繁にあるように思うんですけど、あれは何なんでしょうか? つまりそれらの研修があまり効果的ではないという事ですよね。更新時の必要条件がたったの30時間の研修っていうのは何だか申し訳程度でしかない訳で、もっと根本的な問題点の解決にはならないでしょうね。現状にどんな問題があって、どういう事を施さなければ矯正出来ないのかという事をもっと考えなきゃいけないんじゃないでしょうか。
 例えば、教員になる前に、もっと社会を見ておく必要ってあると思うんですよね。そういう意味では、教員採用以前に一般企業に勤めた経験が少なくとも3年程度必要だとか、更新も5年程度にして、更新時の必要条件も企業研修を1年するとか、5年間の間にもっと多くの研修を受けて単位取得しておかなければいけないとか、チェックの為の試験を実施するとか、もっと厳しくしておかなきゃ意味ないんじゃないかと思うんですよね。
 ま、教員免許の更新制もいいですけど、医師免許の更新制の方が大切なんじゃないかと思う次第なんですよね。医療技術のように日々発展している分野ですから、日々の新しい技術や研究成果の学習や、新しい問題に対処出来るように常に文献等々で学んでもらうっていうのは必要ではないでしょうか。技術や知識もですけど、障害に関してだとか、福祉施策についてなんかももっと正しく理解しておいてもらわないと、「あなたは障害です」って言い放っておくだけじゃ本人はどうして良いか判らない訳で、医療と福祉の連携って大切だと思うんですけどね。
 医師にせよ、教師にせよ、ここ最近大きな問題となっているのはその「資質」の部分で、特に社会通念的なモラルとの乖離だとか、いわゆる「パワハラ」(医師の場合は「ドクハラ」っていう言い方をしますけど)にカテゴライズされるような特権意識だとかっていう事が多い訳で、この部分を何とかしなきゃいけないんじゃないかと思うんですけどね。
 教師の場合は、それと同時に、PTAの必要以上の干渉という問題もある訳で(教師が無茶苦茶だから干渉している部分もあるでしょうけど)、この辺りも同時に何とかしなきゃ先生も可哀想ですけどね。
 それにしても、教育現場への親の干渉って、あまりに酷過ぎますよね。「うちの子は家でも掃除をさせていないので学校でもさせないようにして下さい」だとか、いいがかりのようなクレームを付けておいて、「今日は仕事を休んできたんだから休業補償をしろ」だとか。これはもう常識を知らないとしか思えないモノで、これはどうすればいいんでしょうね。その癖、ホントに大切なところでは子どもに無関心で、子どもを御座なりにして井戸端会議に花を咲かせていて子どもが怪我したからって文句を言ってきたり…。親が親になりきれていないという意味では、「親学」なんていうのも意味はあるとは思うんですけど、「それを政府が言うような物か?」っていう情けなさはありますよね。
 安倍首相は「美しい国」なんて言ってとかく何でも口を出したがるように見えますけど、「美しい国」なんて言う曖昧模糊とした事を言わずにもっと具体的で明確な指標を出さなきゃダメでしょう。でも、安倍さんって言ってる事がはっきりしないんですよね。とっても古いタイプの政治家というか(いやいや、昭和30年代までの政治家ってはっきり物言う人多かったみたいですけど)、器の程度がでているというか……。まずはその滑舌の悪さを何とかしなきゃダメだと思いますよ。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

ワタミが引き取るようですね(まだ判らないけど)
DSCF7196.jpg


 曇時々雨。一時晴。 月齢4 若月

 朝からホントに梅雨なのかと心配になるくらいの青空が広がっていて、ビックリだったんですけど、だんだんと曇り空になり、時々雨がパラパラと。出かける時の雨って嫌だけど、梅雨に降らないとそれはそれでなんだか心配ですよね。琵琶湖は大丈夫なのかなぁ?

 またまたコムスン関連の話になってしまいますけど、グッドウィル・グループの全介護事業をワタミが一括引き受けするとの方針を表明したんだそうです。ここのブログをお読み頂いている方にはお判りだと思いますが、私自身は一括譲渡には懐疑的立場で、一括譲渡は利用者の為にはならないと思っているんですよね。これはあくまでも譲渡する側の理屈だと思っています。
 一括譲渡に関しては、ニチイ学館が一括受け入れの姿勢を示していましたが、ここに来て、「有料老人ホームなどの施設事業なら…」といっていたワタミが、一括引き受けをするという事で、気になって詳細を読むと、なるほどというモノでした。
 ワタミ単独で一括受け入れする訳ではなく、民介協(『民間事業者の質を高める』全国介護事業者協議会」)と共同で一括受け入れし、それぞれの得意分野で連携するというモノのようです。民介協に加盟している事業所は約450社で、大手も加盟していますが、その多くが地域密着型の小さな事業所なんだとか。つまりは事実上の地域分割という事のようですが、この方がきめ細かにローカライズしたサービスの提供が出来ていいと思うんですよね。
 これから高齢化が進み、2052年には5人に2人が65才以上という超高齢化社会になるんだそうです。この比率は、少子化の影響もある訳で、高齢化だけを見ていては解決出来ない問題というのが沢山あるんじゃないかとは思うんですけれど、高齢者や障害者の支援を社会としてどう支え、どう確立していくのかというのが大切ですよね。
 ま、でも、今の仕組みに乗っかって進めていく福祉っていうのは、結局のところ、ホントの意味での自立や、完全参加なんて出来ない仕組みなんですよね。何処までが自立として必要な事なのかや、どういう風に社会に参加したいのか、それに対して「完全」に自己実現出来ているのかどうかなんていうのを当事者が決められる仕組みにはなっていませんからね。ま、つまりは今の福祉の一番の問題点はそこにある訳なんですけれど。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

敗軍の将、兵を語れず
DSCF7193.jpg


 曇一時雨。時々晴。 月齢3 四日月

 本日発売の「日経ビジネス」をお読みになった方はおられるでしょうか? 本日発売の最新号は「粉飾連鎖」というテーマですが、日経ビジネスの定番コーナーのひとつに、「敗軍の将、兵を語る」というのがあるんですけど、今週号の当該コーナーは、今、渦中の人というか、問題の中心にいる人物、グッドウィル・グループの折口雅博氏です。昨日も書きましたけど、この件についてはもう書くの嫌というか、うんざりっていう感じなんですけど(きっと読まれてる方もそうなんでしょうけど)、この「敗軍の将、兵を語る」を読んでると沸々と怒りが込み上げてくるというか、良くもまぁ、これだけ好き勝手な事を言って言い逃れてしまおうとするモノだと呆れてしまいます。この号ではこのコラム以外にも、関東の「時流潮流」で「折口経営につきまとう不透明」というのが4Pにわたって書かれています。こちらでは折口氏が本業といえる人材派遣業でも非常に不透明で、欲しいとなると手段を選ばないともとれる手法でクリスタルを買収した経緯について書かれています。
 で、「敗軍の将、兵を語る」ですが、まぁ、彼に「兵を語る」資格はないと私は思っているので、彼がどうしてこうなったと考えているのか、どう説明するのかというのに興味を持って読んだ訳です。でもね、この人結局のところ何ら反省していないし、自分に責任があるとはホントのところ考えていないのだという事が読み進む中で判ってきた事なんですよね。
 彼はこのコーナーの中で事業譲渡はあくまでもセーフティネットでお客様に対して不要な混乱や心肺をかけない為に…」といった事を書いていますが、事業の再更新が出来ないという事であって、直ちに業務停止になるという事ではなかったはずなんですよね。つまり、執行猶予期間があるにも関わらず、自ら混乱を来すような動きをした訳で、本来なら残された時間の中で、以下にスムーズにサービス提供先を移行出来るのか、どういうサービスが必要な人なのか、どんなことに注意が必要なのかといった事を次の事業者に適切に伝えるという作業を責任を持ってする事こそがコムスンがするべき責任ある公道だったのではないかと思うんですよね。従業員の職の確保に関してもその猶予期間の中で様々な事が高じられたのではないかと思いますね。そうであるべきだったのに、これほどまでに事を急ぎ、事件を余計にややこしくしたのはどういう思惑からなのでしょうか。
 これ以外にも、「ケアプランに無いサービスを提供したらそれが水増し請求と言われた」といった事の例として、「通院介助で病院の入り口までが介護保健の対象で病院内の介助は病院側がする事になっているが、病院側も忙しくてスタッフがいない時に病院内に連れて行ったら『不正行為』になる。」というような事が書かれていましたが、確かにね、不正行為にはなります。それに確かに、そういう状況で放ったらかしには出来ないので、実際に介護スタッフが院内にも入って介助しているなんてケースはあります。が、それを請求してしまうって言うのはどうなんでしょうか。こういうケースは普通事業所内の報告書には記載されても、請求申請に関わる書類には書かないのが普通です。
 これらの問題は、彼によると、「事務処理上の問題があったのは確かな事」と、あくまでも事務処理上の不手際としているようですが、これらの事は現場にそういった正しい判断が出来るスタッフがいなかったという事の証明ではないでしょうか。つまりは、この辺りの問題を正確に理解しているケアマネや管理者がいれば、こういう事にはならなかった「ハズ」なんですが、彼(というか、コムスン)は現場のスタッフを増やしたり、ケアマネを増やすという事を怠っていた訳で、そこにもこの仕事に対する不真面目さが現れているんじゃないかと思います。これらは彼が言っている事と完全に相反する事で、奇しくも彼の言い訳に全く論理性が無いという事を証明しているのじゃないでしょうか。
 彼はこの記事の最後に「グループ内のガバナンス体制を整備するこうが課題」といっていますが、現実には現在までワンマン経営で完全支配の統制が取れた状態だからこそこういう問題が起きたのではないのかと私は思っているんですよね。必要なのか、今回のような事を引き起こす原因となった折口氏の退場と、ディスカッションがもっと自由に出来て、透明性の高い経営体制の確立ではないかと思うんですけども。
 折口さん、訳の判らない言い訳なんてやめて、早々にご退場なさいませ。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

ベルギー王立美術館展
DSCF7187.jpg


 今日は一日中ジメジメととても暑い一日でした。

 11県にわたって従来以外にもコムスンの虚偽申請が発覚したそうです。また、東京では明らかに処罰逃れの為に閉鎖したと見られるケースも見つかり、コムスンが折口氏がいうような利用者の事を考えて事業展開していたのではないという事がはっきりしてきました。
 ああ、でも、こうコムスンの事ばかり書いてると、気が重くなるというか、暗い気分になっちゃうので、話題を変えましょう。

 先日見てきた「ベルギー王立美術館展」(於:国立国際美術館(NMAO))ですが、私としては久々の16・17世紀絵画という事で、印象派以前の西洋美術の特徴というか、光や影の表現技法の違いを改めて感じた美術展でした。ルーベンス、やっぱり良いですね。同時代の作家と比べても光の表現というか、光と影のコントラストが際立っていて肖像画なんかでも決して多くの色が存在している訳ではありませんが、光の扱い方で鮮やかさがとてもよく出ていました。作品全体を通して感じる優しさは、ルーベンスの優しさなんでしょうね。印象派以前の西洋絵画ではあまり庶民の暮らしを表現した物が無いと言われていますが(パリのサロンなんかでは鼻にもかけられていなかった訳ですけど)、今回のコレクションの中には幾つも庶民の暮らし(風俗)を扱った物があって、それもとても楽しい物でした。ダーフィット・テニールスの「イタリア絵画ギャラリーのネーデルランド総督レオポルト・ヴィルヘルム大公」は、壁一面にコレクションされた絵画が描かれた中央に大公がいるという物で、様々な作品を一枚の絵画の中に収めたユニークな構成の絵画で、当時のコレクター(貴族達)が絵画をどう扱っていたのかが判る事等も楽しいですね。19世紀の作品群からは従来の技法を使いながらも新たな構図やモチーフを模索している様子が表れていて、それらがその後の印象派に繋がっていく様子が窺われました。アルフレッド・ステヴァンスやフェリシアン・ロップスの作品からは当時の女性の衣装や暮らしの様子が見て取れますし、アンリ・ド・ブラーケレールの「窓辺の男」では、何も置かれてない部屋の、通りに面した窓を開けて外をうかがう様子から、既に新しい光の表現様式が生まれてきている事や、開け放たれた窓ガラスに映った外の景色の表現などもとても印象的でした。19世紀後半の作品群は、既に新しい時代の影響や新しい表現様式を挑戦的に用いていたり、印象派そのものの作品などとても興味深い物が多くありました。
 印象派、私も好きなんですよ。印象派が「印象派」と呼ばれる事になったのは、モネの「印象、日出」という作品の名前からとられたモノと言われていますが、これを見られた方はお判りだと思うんですけど、「印象派(Impressionnistes)」若しくは「印象主義(Impressionnisme)というのは写実的表現ではなく、それらのモチーフから受けた印象を表現しているモノなんですよね。これらの考え方はのちの近代美術(ダダイズムやキュビズム等々)に大きな影響を与えたモノですし、現代美術にも当然ですが大きな影響を残しています。こういう作品の前段階にあると思える物を見るというのは楽しい経験でした。でも、もしも貰えるとしたら(そんな訳ありませんけど)ルネ・マグリッドの「光の帝国」が良いかなぁ。結局のところ、私は古典よりも近・現代の作品の方が好きだって事なんでしょうね。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

地域社会の復活
DSCF6980a.jpg


 晴れのち曇り。 月齢2 三日月

 昨日のエントリーの続きになるんですけど、 介護保険制度を導入する際に国は「施設から地域へ」という事をいってこれからの福祉の中心は地域社会だという方向を打ち出した訳ですよね。地域活力の利用っていうのが色々なシーンで取り沙汰されていますが、実際、地域の力って、昔と比べると落ちているんじゃないかと思うんですよね。それは地域住民の結束力に代表されるんじゃないかと思っています。地域活力が低下した理由というのは複合的で単純なものではないでしょうが、その理由のいくつかを考察してみたいと思います。
 一つには、生活の基盤となる住宅構造の変化というのがあるんじゃないでしょうか。私が住んでいるところもマンションなんですよね。うちのマンションって、それ程規模の大きなものじゃないのですが、それでも約60世帯が入っている訳です。これ、少し前の町内会一つと同じレベルですよね。でも、隣に住んでいる人がどんな人か、実はここに移ってきてもう6年を過ぎましたけど、いまだにお隣さんと顔を合わせてお話しした事がありません。マンションではよくある事ですが、私の実家のような戸建て住宅ばかりのところではまずあり得ない事なんですよね。
 私の実家はいってみれば下町ですから、私が子供の頃は今くらいの季節になると、うちの前の通りに「床机台」なるものが出て、そこに大人連中が座って話していたり、お年寄りがそこで床机をしていたりと言う事があり、学校帰りの子供に大人が声をかけるなんていうシーンがごくごくふつうにありましたし、私自身も学校帰りにそこを通ると、「お、今帰りか。冷たい麦茶飲んでいき。」って声をかけて貰って、冷たい麦茶をよばれたりしたものです。今のようなマンション暮らしでは、そういう事はあり得ない(家の前の通りって言うとつまりは廊下になる訳で、狭い廊下で立ち話なんてされたら迷惑この上ないんですけどね)訳です。こういう構造の変化が、地域住民の接点を減らし、地域力を低下させたんじゃないかと思います。
 地域の構造が平面構成から縦の立体構成になった事が、地域の結束を弱めた。と分析する人がいますが、まさにこういう事を言うのではないかと思います。
 もう一つは地域住民の余力という問題で、財政的、物理的余力がないというのも問題を大きくしている理由の一つだと思います。昔は、地域の行事に多くの人が参加していましたが、昨今では業務形態の複雑化や共稼ぎ、残業しなきゃどうしようもないというような事情から物理的に地域社会の活動に参加する時間がとれないという家庭も増えてきています。また、「年収300万円時代」なんていう言葉が出てきたりと、各家庭の収入も減ってきています。今年は定率減税の廃止という事で、実質的な増税が始まり、家庭の財布の中は大変な事になりそうです。
 一方、企業はと言うと、国際競争力という言い訳の元に利益の集中に必死になっているなど、収益の蓄積に躍起になっている感じさえ見受けられます。社会的存在意義という事を考えると、地元に対する還元というのがあまりにも今まで少なすぎたのではないかとも思うんですよね。そういう意味では、地元への還元コストとして企業が社会福祉コストを負担するという事も考えて良いのではないでしょうか。
 「社会福祉コスト」といっても、様々な形態が考えられると思うんですよね。現金で費用負担をするという直接的コストというのも一つですが、それ以外にも企業活動をオープンにしたり、地域の中で活動するという事で社会福祉コストを負担するという方法も考えられるのではないでしょうか。
 企業そのものが地域社会に開かれていくと、子供にとっても「働く」という事がどういう事かが見えてきたり、近所にある工場がいったいどういうものを作っているのかが判る事でその企業や製品に親しみを持てたりといった事が起きてきます。また、企業の敷地の一部でも開放してもらえれば、そこが地域社会の活動の基盤になったり大人の目が行き届く場所という事から子供が安全に遊ぶ事が出来る場所になったりと、企業と地域社会が結びつきを強くする事が出来るでしょうし、企業が地域に果たすべき貢献というのも大きくなるのではないでしょうか。
 地域が力を戻して、地域社会が機能するようになれば、社会福祉そのものの形が大きく変わるでしょうし、最小公倍数に合わせた福祉ではなく、ここのケースにより適応したサービスの開発という事も可能になるのではないでしょうか。そのときに、企業が地域社会に参加していれば、より多くの社会資源の活用が可能になるかも知れませんし、企業も地域社会からフィードバックを受ける事が出来るのではないかとも思います。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

コメントについて
DSCF7175.jpg


 毎回毎回、エントリーをすると必ず本文とは関係ない正体不明のいかがわしいサイト(アダルトではないようですけど)への誘導目的のコメントをつける「族」がいるようです。見つけ次第削除するようにはしていますが、面倒な事この上ないんですよね。これからもこういうのが続くようでしたらここのコメント書き込みを停止するつもりです。こういう連中が結果としてネットのコミュニティを潰していくんですよね。結局自分たちの居場所を無くしてしまう事にしかならないっていうのにね。そういう意味では寄生虫より性質が悪いというか頭が悪いとしか思えませんね。
 とりあえず、承認しない限りコメントは表示しないように設定してあります。業者以外のみなさんにはご迷惑をおかけしますが何卒ご理解下さい。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

社会福祉事業のこれから
DSCF7176.jpg


 晴。 月齢1 既朔

 いやぁ〜ビックリしちゃった。何がビックリしたかって、毎週聞いているポッドキャストの番組に、「日経ビジネス編集長のここだけの話」っていうのがあるんですよね。ま、日経ビジネスの話はここでも時々ふれているのでご存じの型もおられると思うんですけど、昨日も朝、例のごとくダウンロードして、車を運転中に聞いていると、なんと、私の出したメールが読まれてたんですよ。で、ビックリしたって次第です。「有力経済誌に何を?」って思った方もおられるでしょうけど、日経ビジネスで取り上げて欲しい特集として、福祉ビジネスと障害者の労働についてというのはどうかという提案をした訳です。で、そのメールが紹介されていました。今週は(というか、先週から)ずっとコムスン問題が多そうどうになっている訳ですが、そういう事もあって、最有力経済誌として障害者の雇用の問題や福祉事業を見て欲しいと思っているんですよね。読んで頂いてありがとうございました。で、近い将来そういう特集が読める事を期待しています。

 このブログもここのところずっとコムスン問題について書いている訳ですけど、ちょっと離れて(というか、やっぱり関係ある訳ですけど)福祉事業のこれからについてもうちょっと考えてみたいなと思う訳です。
 産業革命後、福祉事業は基本的に社会保障として存在してきました(労働者への還元というステージで)。それ以前は支配者(領主等々)による「施し」として存在したり、キリスト教的「慈愛」として存在していたのが障害者をはじめとする弱者保護ですが、産業革命によるパラダイムシフトでこれらががらっと変わった訳ですね。
 戦後の日本は「世界で一番成功した自由経済経済下の社会主義国」と言われるほどに、貧富の差が小さく、極端に貧しい状況というものが存在せずにすんだといわれています。戦後1945年から1965年くらいまでの間は日本全体が貧しかった訳で、そういう意味では格差がそれ程なかったといえるのかも知れません。
 高度経済成長と共に、労働組合等の動きを中心に社会保障制度の拡充が叫ばれ、1980年の国際障害者年、国際障害者の10年と、バブル崩壊前夜までは障害者福祉や高齢者福祉なども行政による措置として順調に進んできた訳ですが、バブルの崩壊と同時に国家の経済基盤の崩壊が始まり、その煽りを受けて社会保障も停滞してしまったと捉えて良いのではないでしょうか。
 「小さな政府」を目指す現在の日本政府は、社会保障の多くをアウトソーシングしてしまおうとしています。その第一歩が介護保健制度による高齢者福祉のアウトソース化だった訳で、障害福祉における支援費制度、それに続く自立支援法が高齢者福祉に続くアウトソース化でした。
 介護保健制度、支援費、障害者自立支援法、これらの開始時に行政側が大きくアピールしたのは、「利用者側が自分に合わせて内容を選ぶ事が出来る制度です」というモノでしたが、現状ではどんどんその当初のメリットからかけ離れていっているようです。
 そう遠くない将来(というか、もう数年後には)、介護保健制度と障害者の支援制度(自立支援法)は統合されて介護保健に呑み込まれていく事になるでしょう。そうなった時に、絶対的多数の高齢者の制度が優先になって、障害者の利用の利便性がどうなるのかという事や、高齢者サービスとして存在しているケアマネがそのまま障害者も見るとすると、性格に障害者のニーズをつかむ事が出来るのか、その当たりも良く考えなきゃいけないんじゃないかと思うんですよね。
 この辺りを考えるには、高齢者や障害者、子どもを支援したり、サポートしたりという事(つまり社会保障ね)が一体その社会でどういう位置付けにあって、何処が責任を負うのか、この辺りを、本来は福祉行政としてどう考えているのかを明確に示す事が必要なんじゃないかとは思うんですよね。
 福祉事業をビジネスとして成立させるには、サービスを誰が買うのかという事を考えなきゃいけないと思うんですよね。「誰が買うのか」って、誤解を受けそうですけど、つまり、「財布は誰が持っているのか」という事なんですよね。介護保健にせよ、自立支援法にせよ、利用者が財布を持っているのかって言うと、現実には自己負担は1/10ですから、実質的な「財布の持ち主」って言うのは結局行政だっていう事になるんじゃないでしょうか。この部分は国の社会保障の一部として障害者施策や高齢者施策が存在していると言う事から考えても当然の事ではあります。が、それにより、財布の中身に上限があるのは当然のことになるわけで、結果として福祉施策を自由に使う事は出来ないとなるのもまた仕方がない事なのかも知れません。仕方がないのかも知れませんが、それなら認定や受給量に関する判定は行政がするべきなのではないかと思うんですよね。
 もう一つの方法は、「政府の財布だけをあてにはしない」という方法です。例えば、自己負担比率を上げるという事も論理的には検討の内になるでしょう。また、さらに別の方法としては、民間の保険として、介護や障害に関する保険を作り、万が一の場合はそこから受給するという方法も考えられるでしょう。
 現状のまま、行政の懐具合だけに頼っていたのでは高齢者福祉も障害者福祉も十分なレベルのものを利用出来るとは思えません(もちろん、児童福祉等々もですけど)。では、どうやって必要となる資金を捻出するのか、それこそが、これからの福祉事業の大きなポイントになる事は間違いないんでしょうね。そこで考えられる事の一つは、企業等の法人の社会的存在意義などと言ったものも挙げられるのではないでしょうか。企業が、地域社会にどういう形で関わっていくのか、どういう形で地域と共に存在するかというのは今後大切な課題になるのではないでしょうか。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

迷走のコムスン
DSCF7152.jpg


 雨。ずっと雨。 月齢28.3 暁月

 近畿地方も今日、ついに梅雨入り宣言がでました。これは昨年よりも6日遅いもので、平年と比べると8日遅い梅雨入りなんだそうです。気象庁の長期予報によると、今年の夏は猛暑小雨という事で、雨量があまり期待出来ないんだとか。琵琶湖の水位もこの時期としては少し低めのようですし、今年は水不足になるのかな?

 コムスンの売却ですが、どうもまだ一括譲渡という事で考えているようで、譲渡額がなんと1,000億円なんだそうです。また、グッドウィル…グループの労働組合も一括で職員もそのままでという事で交渉をしているんだそうですけど、現実的な話、それはちょっと無茶なんじゃないでしょうかね。そんな事よりも利用者への影響が最小限で納まるように考える事こそが第一優先の課題だと思うんだけど、その部分はどう考えているのでしょうか。
 コムスン自体は24時間対応というのを謳い文句のひとつにしていましたので、それをそのまま受け継ぐとなると大変なのは大変なんですよね。そういう意味では、スタッフをそのまま移行する方が良いのかも知れませんけど、でも、どうもスタッフの体質にも問題があるような話もきいていますから、そのままだと同じ轍を踏む可能性もあるかも知れませんね。その辺りの事を考えると、スタッフの入れ替え若しくは再教育というのも必要なんじゃないかと思いますけど。
 譲渡の問い合わせが現在30社を上回っているんだそうですけど、一括譲渡となるとそれだけの資本を持っているところに限られてくる訳で、そうなると、厳しいんじゃないでしょうかね。
 厚労省は量から質への転換をと言っているそうですけど、報酬の引き下げを片方でしておいて、質の向上なんて言ってもそれは無理なんじゃないでしょうかね。行政があまりにもコントロール(と言うよりも抑制)をしてしまうと、結果として狙いとは反対の結果に向かっていくんじゃないでしょうか。

 国立国際美術館で開催中の「ベルギー王立美術館展」に言ってきました。詳しい報告はまた後日にしたいと思いますけど、ルーベンスの絵をドラクロワが模写した作品が両方を並べて展示してありました。これがなかなか面白かったですね。それ以外だと私は16〜17世紀の作品群よりも19〜20世紀の作品群の方が興味深い気がしましたね。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

これからの福祉事業
IMG_9090.jpg


 晴のち曇。 月齢27.3 有明の月

 コムスンの一件はどうやら分割譲渡という方向に向かいそうで、有料老人ホームなどではワタミが、訪問介護事業では部分的にニチイ学館が、夜間対応型訪問介護サービスについてはジャパンケアがそれぞれの得意分野での受け皿になりそうです。
 と、事ここに至って、コムスンはまだ不正請求していた事が発覚してきたりとまだまだボロボロと出てくるかも知れませんね。それにしても、折口氏は一連の事件を現場の責任と責任転嫁してしまっていますけど(一応責任者として頭は下げてはいましたけど)あの組織で折口氏が何も知らなかったなんて事はある訳がないっていうのは誰が見ても明白な事だと思うんだけど。こういう業界って、現場の方が遵法意識強いんですよね。だからこそ、現実途方の矛盾の中で苦しんだり悩んだ利っていう事が多いのですけど、そういう事も判っちゃいないんでしょうね。
 それはそれとして、各メディアも問題にし始めているのは、そうでもしなければ利益の上がらない介護保険自体の抱える問題点ですけど、これ、もっと問題視していって欲しいですね。介護報酬の引き下げに当たって厚労省が理由として挙げていたのは「利用者負担の軽減」というものですが(そんな事関係者は誰も信じてませんけど)、現実には予算の抑制がホントの理由だという事はこれまた明白な事実。厚労省は必要なところを引き締めて不要なところを垂れ流しで予算をどんどん使っているようにしか見えないんですけどどうなんでしょう。
 高齢者介護・障害者支援といった福祉事業は、そもそもが儲ける事を目的としない事業として存在していた訳で、それを民間委譲で自由経済の中で競争せよっていうのは乱暴なんじゃないかと思うんですよね。いやいや、サービスそのものは質の競い合いをしてどんどんレベルを上げていくべきだとは思いますけど、それにしても報酬が低すぎてどうしようもないですよね。この報酬金額を政府がコントロールしている限りホントの意味で民間が経済活動として福祉事業を開拓するっていうのは難しいかも知れません。
 私としては、以前からも言ってますけど、「公共事業」のパラダイムシフトをしなければいけないと思っているんですよね。つまり、土木・建築業で経済を引っ張っていく時代っていうのはとうの昔に終わっている訳で、これからの高齢化・バリアフリー社会にとっての公共事業というのを考えると、社会保障としての事業と公益事業としての事業の両面を持つのが福祉事業で、これこそを公共事業の中心に据える事が必要なんじゃないかと思うんですよね。
 公共事業は土木・建築業者を守るために存在している訳ではなく、住民を守り、公益性の高い事業を進めるという事が意義であるはずですから、そこのところをしっかりと押さえてパラダイムシフトしなきゃいけないんじゃないでしょうか。
そうすれば、介護事業や障害者福祉などに資本投資がされる訳で、これらの事業も産業として育っていくのじゃないかと思うんですけどね。
 阿部さんはどうやら参議院選挙終了後を見据えて、それまではじっとしていようと思っているようですね。それでも、消費税の引き上げや所得税の控除の見直し等々、我々の生活を逼迫させるような事を沢山考えているのはもう見え見えなんですよね。そんな事考える前に、しなきゃいけない事沢山ありませんか?
 憲法改正には基本的には反対しませんが、改正してどういう社会になるのかっていう具体的なビジョンの提示がないままでは考えようがないんじゃないかと思うんですよね。それに、こんなに大切な事をどうしてそう急き立てるようにしてやってしまわなきゃいけないかが判りません。もっと何をどうするためにどういうところをどう変えて、どんな形にしたいのか、その結果社会はどう変わるのかというのを具体的により多くの人たちで議論するべきなんじゃないかと思うんですけどね。
 教育基本法にせよ、「親学」でしたっけ?にせよ、どうも枝葉にこだわっていて、大切な「骨」になる部分がどうも弱いように思います。そうそう、骨が弱いと言えば、「骨太の方針」ですけど、ホントに骨太なんですか?なんだかすぐにこけて骨折してしまいそうに見えるんですけども・・・・。
 その「骨太の方針」ですけど、これを英訳するのが大変なんだそうです。「骨太」がいったいどういう意味なのか、それを意訳していく訳ですけど、なかなか良い訳が見つからないんだとか。
 阿部首相の話は相対的に具体性に欠ける訳で、その典型例が「美しい日本」ですけど、具体性がない上に不要な修飾語(それも、「美しい日本」と言いながらカタカナ言葉の多い事多い事)が沢山くっついて話がよく見えないというのが阿部さんの演説という気がします。滑舌も悪いしね。だから説得力がない(のか、そもそも中身がないのかは難しいところですが)んじゃないかと思うんですよね。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記