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2007.06.30
大切なもの

暗い話ばかりで、何だか息がつまりそうですが、そんな中、大阪出身の神尾真由子さんがチャイコフスキー国際コンクールのヴァイオリン部門で優勝されたというニュースが飛び込んできました。チャイコフスキーコンクールは今でこそチェロ部門や声楽部門、ピアノ部門といったものが出来ていますが、もともとはヴァイオリンのコンクールなんですよね。チャイコフスキーコンクールのヴァイオリン部門の日本人の優勝は諏訪内晶子さん(第9回1990年)以来の快挙。諏訪内さん、コンクール優勝当時の音って確かに技術的には素晴らしいし表現技術や音の響かせ方とかってとっても上手いとは思いましたけど、私はあまり好きじゃなかったんですよね。でも、最近の音は何というか、角が取れたというか、熟成した音というか、つまりは人間的にも色々な事を乗り越えて成熟したという事なんでしょうけど、とてもいい音だと感じています。
今回優勝した神尾さんの音がどういう音なのか、私はまだ聴いた事ありませんけど、既に名前の通った演奏家のようですから(既に10代半ばでデビューされているようですから)、機会があればお聴きしたいと思っています。
と、ここまではおめでたいお話なんですが、ここまで書いて手元にあっ通訳協会の学習会スケジュールを見ると、もう何というか、「何を学ぶ必要があるのか」というのがホントに判っているのかと疑いたくなるようなスケジュールなんですよね。
そもそも、通訳協会の学習会は技術的な学習と、理論的な事や通訳者としての対人支援能力の向上などの為に(通訳)問題についての学習を、しかも、それぞれの立場(仕事をしている人だとか、主婦だとか)を考慮して月に二回、昼と夜とをそれぞれ変えて、学習会を開いていました。それが今回のスケジュールを見ると、技術学習に偏重した計画になっている上、昼の学習と夜の学習の回数がバランスしていないというもの。これで、1/2の出席を義務化し、それに足りない場合はレポートをというのはどうにも配慮に欠けたものではないでしょうか。こういう事に気が利かないというのは、問題意識が欠如し、周囲に気配り出来ない状態の現れであり、それはつまり、「通訳問題」の学習が足りない結果ではないかと思うんですけどね。
音楽の世界でも同じで、大学時代、声楽を専攻していた知人がいましたが、とてもよく声も通り、綺麗な声で、技術的にも表現力のあるのは確かでしたが、それ以上のものを感じられないという女性がいました。結局彼女に足りなかったのは、その曲に込められた思いを理解し、それを自分のものにして伝えるというメンタルな部分の成熟が出来ていないというものだったんですよね。
技術偏重で、意識や問題といった事が等閑になってしまうというのは実はとても怖い事だと私は思っています。特に、手話通訳もそうですが、表現するという事に関わる場合や、対人支援のように人と関わるという場合、その根本にあるモノが欠けていたり十分でなかったりする事の方が技術が未熟である事よりも重大事だと思うんですよね。あるベテランの専任通訳者と話していた時にも「技術なんて後からついてくるもの」という事で意見が一致したのを覚えています。
本当に大切なものは何か。それは何処にあるのか。それを考える力こそが全ての根底に必要な事ではないのでしょうか。
2007.06.30
伝えるという責任

一時雨。のち曇り時々晴れ。 月齢15 十六夜
朝方、突然かなりの勢いで降ったかと思うと、唐突にやみ、その後はジメジメと茹だるような暑さ。この雰囲気はもうそろそろ梅雨も終わりって事でしょうか。
ここのところホントに暗いニュースばかりで、ここで取り上げた事もかなりくらい内容ばかりになってしまってますよね。で、今日は少し趣向を変えたいと思って、ニュースを色々見てたんですけど、そうすると、通訳協会の事務局からお手紙。中を開けてみると、学習会に使った資料だとか、5月度の理事会の報告だとかが入っていました。
理事会の内容も気になってみてたんですけど、どうにも未だ引き継ぎの内容だとかがメインで大きな議事があった様子ではなさそうでした。でも、検討しないといけない課題は山積みだったんじゃなかったっけ?
そうそう、制度外派遣の報酬に関しての話し合いがあったみたいで、制度外派遣の際には従来は1,400円/時間とし、差額を協会へ寄付という形で上げて貰っていたものを、今後は寄付を無くして全額通訳者が受け取るという事になったようです。これ、じゃ、請求出来なかった場合の通訳は報酬無しって事なのでしょうか?そもそも、請求出来ないような場合や出来ても少ないなどの場合の事を考えてプールしていこうというのが差額を協会が寄付という形で貰うという事の意味性であった筈なんですよね(それと、協会独自事業に必要な経費や事務費という意味合いも含みますが)。では、今後はそういう事はしないという事なんでしょうか。つまりは、制度が適応出来ず、それでいて、費用請求出来ないようなケースには通訳を派遣しないという事なのでしょうか。
それと、学習会の資料の中に、総会の際(とその後の議事録への質問の中で)に指摘した「役所と協会の契約の中で『協会が派遣事業を第三者に委託もしくは請け負わせる事は出来ない』となっているのに、ガイドブックでは協会と通訳者の関係を『委任契約(請負契約)』と表現しているが、契約に反しないのか?」との問いへの回答として、書かれた文章があったので、読んでみたのですが、どうにも結論がどうなったのかが読み取れないんですよね。何度も何度も読み返してみたのですが、何度読んでも最終的にどうする事になったのかが理解出来ないんですよね。これ、つまりは私が頭悪いからっていう事なんでしょうね。きっと学習会に参加された方は意味がきちんと理解出来たんでしょうね。素晴らしい。
テキストであろうが音声であろうが、「伝える」という作業には結論として「何を伝えたいのか」が正確に対象者に判るという事が大切なんだと私は理解しています。ですから、まずは結論がどうなのかがどういう形で明示されているのかというのはとても大切な部分なんですよね。これ、学生にレポートの書き方を教える時にも言っている事ですが、結論の判らないレポートなんて書くだけ無駄なんですよね。自分はどう思ったのか、現実にはどうなっていたのか、それはどうあるべきだと思うのか、それにはどうすると良いと思われるのか。こういった事をちゃんと整理して書くというのが大切なんじゃないでしょうか。ましてや、「伝える」という作業を専門的にしている通訳者の団体ですから、そういった事(内容が明確に判る)が出来て当たり前なんじゃないでしょうか。
「最後の結論まで言わないのが日本の良き伝統だ」なんて言う人が時々いますけど、それは、最後まで口にする必要がないという環境だったからで、言わなくても最後の結論は解り合えていた訳ですよ。それはどうしてかというと、共通の概念、共通の認識、共通の経験を通して相互に何をどう捉え、どう考え、どうしようとするだろうかというのがお互いに判っているからこそ、最後まで言わなくても解り合える訳ですよね。で、そういう関係の構築が今の通訳協会の中で出来ているのかというと、残念ながらかなりほど遠い状態じゃないかと思うんですよね。
よしんば、言わなくても判る関係が既に構築出来ているとしても、文章化して、残すものであれば、それを読んだ人(たとえコミュニティに入っていない人であっても)に正確に伝わる事を考えなければいけないのではないのかと思います。
こういう事を見ても、今の手話通訳協会の実力というのが推し量れる訳で、手話単語の表現云々以前に、伝える事についての理解と注意が十分身に付いていないという事ではないでしょうか。
実は、手話通訳者の日本語能力にはかなり怪しいところがあって、それ故「私読み取り通訳はどうも苦手で……」と言い逃れをしてしまう事になっているように思います。このあたり、私も府の通訳者養成の講師をしていた時から指摘している事で、通訳者養成講座に日本語の学習時間を取り入れるべきだと言っているのですが、いっこうに変わる気配はありません。聴者は日本語が出来て当然なんて言う神話は全く当てのはずれた話で、日本語は使っていても意識的に学習している訳ではないので、通訳者のレベルとしては全くなっていない人が大半なんですよね。そういう人にいくら手話を教えたからといって正確に伝える事の出来る通訳者になんてならないのですけども。
結局楽しい話題にはならなかった今回のエントリーでした。
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