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 晴れ。 月齢12.6 小望月

 いやぁ、梅雨明けからこっちとってもいい天気が続いています。今日なんて雲ひとつ無い快晴ですからね。湿度がぐっと低くなっているみたいで、直射日光が当たると暑いですけど、影に入ると結構涼しい感じです。関東以北、東日本にお住まいの方はまだ梅雨明けしてないですね。早く明けると良いですね。

 昨日は疲れちゃって寝てしまいましたから、今日はその続きを。
 井伊直弼という人は14男という事もあって、そもそもは家督を継ぐような立場にはなく、本人もそんな事露とも思っていなかったようです。17歳で父直中(なおなか・11代藩主)が亡くなると、300俵の捨て扶持を与えられて埋木舎に住みます。「埋木」とはつまり自身の事を埋もれた木に見立てて言った訳で、ここを拠点に様々な芸事を身に付けていきます。例えば、茶道などでは一派を立てるほどで、それ以外にも能楽などにも才能を現し、能面作りや狂言の創作などもしています。学問にも明るく、儒学、国学、禅、などにも通じていて、また、武術面でも、居合、砲術、柔術などが得意だったそうです。そうそう、何でも兵法では山鹿流(やまがりゅう)を習っていたんだそうです。山鹿流というと、忠臣蔵の大石内蔵助。吉良家討ち入りの際に叩いたとされる山鹿流の陣太鼓は実は存在せず、討ち入りの際に太鼓を叩いたという事もなかったようです。
 江戸以前の日本では貨幣の代わりに米が中心となっていた経済構造で、「300俵」というのは年収300俵という事ですね。それがどのくらいだったかというと、1石がおおよそ150キログラム。1俵は約60キログラムなので、2.5俵が1石相当という事になります。つまり、300俵だと、120石相当という事になります。(捨て扶持)というのはいわば救済措置のようなもので、生活保護のようなものだったそうです。1石がだいたい人一人が年間に食べる米の量なんだそうですから、120人分の米という事になりますが、この中から家としての生計を維持する事になる訳ですから、井伊家の直系という事を考えるとそれ程裕福な身分ではなかったようです。ま、だいたい下級旗本程度といったところなんでしょうか(4公6民と考えると、おおよそ500石の旗本と同程度という事になりますね)。
 直弼は他藩への養子の口が見つからなかった場合は、茶道の世界で身を立てようと真剣に考えていたようです。江戸で養子口を探すものの、養子の話もないまま埋木舎に戻り、趣味の世界に没頭する時間を過ごしていたようですが、父直中の後を継いだ兄直亮(なおあき)が57歳で亡くなると、兄の後を継いで藩主になり、「埋木」から日の当たる大木へと変わります。
 家督をついだ直弼はその後大老職に就き、かねてから開国論者であった直弼は日米修好通商条約に調印し、反対は、尊皇派、攘夷派の者を粛正、安政の大獄に至ります。その後の事はもうよくご存知の通りですね。
 大老になった後に井伊直弼が対峙する人物の中に、一橋慶喜がいます。慶喜も、水戸9代藩主斉昭の七男として生まれ、部屋住みとして「それなり」の藩に養子に行く筈の立場でしたが、斉昭は慶喜を養子には出さず、一橋の養子にどうかとの話があるまで部屋住みとして暮らしています。一橋家は将軍家(つまり徳川宗家)の家族になる訳で、本来、水戸家は将軍を出さない立場の家(家康によると、尾張、紀州に将軍家を継ぐに相応しい者が居ない場合は、水戸家が中心になって諸藩の者と相談し、それに相応しい諸侯を選ぶ事となっていたようです)で、水戸家から一橋へ養子に行く事自体が異例中の異例となる訳なんですね。ところが、彼は将軍になってしまいます。これ、少し井伊直弼と似ているといえないでしょうか。
 司馬遼太郎の「最後の将軍」の中で井伊直弼は慶喜と出会った時に、「もっと早く出会っていれば、この人の元でお仕え出来ていたとすれば…」と悔しがるシーンがありますが、それは司馬遼太郎の想像の世界の事。井伊直弼は徳川家の為に、秩序ある選択として紀州家の慶福(後の徳川家茂)を擁立します。これもいわば譜代筆頭の家柄としては当然の事といえるでしょうね。
 そう考えると、井伊直弼は本来、平安な時代の大老であればとても優れた大老になっていたでしょうし、兄の子が亡くならなかったなら、茶道の道で優れた茶道家として歴史に名を残していたかも知れません。彼にしてみれば、生まれた時代が悪かったのかも知れませんね。