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2007.08.19
道とは自らが作り出すものです。

晴れのち曇。夜半に雨。 月齢6.2 上弦の月
先日行ったショッピングセンターで「AED(自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき))」を見かけました。少しずつ普及してきてるんですね。
中教審(中央教育審議会)が新しい学習指導要領を発表しました。学習指導要領の改正は10年に一度の事なので、今後10年間の日本の教育の指針となるモノという事ですね。新しい方針では言語教育を最重要課題とし、国語科目にとどまらず、数学や科学、体育に至るまで言語教育を視野に入れたカリキュラムとするようです。ま、これはとても良い事で、例えば数学なんかも、答えが合っていればそれで良いというレベルの教え方ではなく、答えに至る過程がどういう論理立てで進み、どういう理解をしているのかを表現出来る事って大切だと思いますね。こういう教育の欠如の影響みたいなモノって、手話通訳の報告書の中にも現れていると思うんですよね。報告書書かせても、レポート書かせても、何処に行った、誰と行った、どうだった程度のまるでメモ程度のモノしかかけない通訳者って結構います。こういう報告書やレポートを見るたびに、「この通訳者はちゃんと内容を理解し、状況を把握し、適切な伝達方法で、対象者のコミュニケーションが成立するように通訳出来ているのだろうか」と、心配になります。通訳者の学習に作文や感想文を取り入れるという事をしているところもありますが、それらの後のフォローがたいへんすぎて徹底出来ていないのが現実なんですよね。長文読解力や想像力といった事も実は通訳に求められる力なので、こういう学習を根気よく積み重ねていくようにしたいモノですね。
朝青龍について、「いい通訳がついていて横綱に相撲の何たるかを諄々と説くことができていたらどうなんでしょうね?」というご意見ですけど、どうなんでしょうか。そもそも「横綱に相撲の何たるかを解く」という事自体が滑稽とも思えます。それも含めて力士の誰よりもよく理解出来ているという事が横綱たる資格ではないかと思いますけども。
朝青龍は17歳で某高校に相撲留学で来日、2年後に退学して各界に入門しています。既に来日から10年を日本で過ごしている訳で、来日当初にそういった事を丁寧にやっていればこれほどの事にはならなかったのかも知れません。でもね、10年間日本にいて、それなりに日本語が使える状態になっている訳で、今更通訳を付ける意味というのはないと思いますし、そうなると、本人が理解したいかしたくないか、つまり、本人が「我」を通そうとするか、相撲という日本の国技のありようを理解し、それに従おうとするかという問題だと思うんですよね。従いたくないのなら、それはつまり相撲を体現化している横綱としての資格はないものという事になりますし、それはつまり、引退廃業を意味する事になるんじゃないでしょうか。これは朝青龍自体の問題であると同時に、こうなるまで朝青龍に必要な指導を根気強くやってこなかった相撲協会の責任でもあるんじゃないでしょうか。
協会も今後の「大相撲」の位置付けを明確にしなければいけないのではないでしょうか。国技として、神事として「相撲道」を続けるというのなら、いっその事外国人力士を受け入れないという方向の方が良いのかも知れませんし、スポーツとしての「相撲レスリング」を方向とするのなら、「品格」だとか「神の位置」だとかという日本古来の文化に依存した体質なんてさっさと捨て去って、勝か負けるか、強いか弱いかの世界になり切るか、どちらかを選ぶべきだと思いますね。
そもそも「相撲道」とかって「道」をつける時点で何だかいかがわしさを感じるんですよね。その根底にあるモノが武士道だとすれば、どうして素直に「武士道」といわないのでしょうか。「剣道」にしても「柔道」にしても、そもそもは「剣術」「柔術」なんですよね。武士の嗜みとしての武術。その中の「剣術」「柔術」であって、それらを通して武士道を見つめ直す事もあるでしょうが、それはあくまでも「武士道」だと思うんですよね。
武士道はサラリーマンにもフリーランスのプロフェッショナルにもあるんじゃないでしょうか。
え? 「武士道とは何か?」ですか? 具体的なものはそれぞれの立場で違うんじゃないでしょうか。でも、抽象的な概念として、その道に真摯である事というのは求められるのではないかと思いますね。一応、私にも「士」は付いてますけど。

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