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 曇のち晴れ。 月齢19.6 二十一夜

 手話通訳の複数配置についての根拠としてあげた事のひとつに、通訳者と利用者との相性や好き嫌い、得手不得手といったものがあります。「好き嫌いを言っている場合ではない。業務なのだからそんな事を問題にするのは非合理的だ。」とか、利用者(つまりろう者)に対しては、「問題を抱えている状況で、そんな個人的感情を持ち込んでいる場合ではないだろう。」という意見があるのは尤もだと思いますし、おそらく、それが論理的には正論なんだと思います。そう、正論なんですよ。ところが、手話通訳の現場やケースワークの現場ではこういった事が多分にあるのも真実なんですよね。というか、こういう事がとても大きく影響するのが実情です。これは、好き嫌いや得手不得手が最終的には相互の信頼関係に影響する事だからで、対人業務に当たってはこの部分が実はとても重要な要素になります。つまり、対人支援業務等においては「正論」即ち「正しい事」という事にはならない場合もあるという事です。
 信頼関係を構築するという作業はたいへん時間と根気のいる作業で、そうやって築いた信頼関係を制度や当事者の問題ではなく、制度運営者の都合で安易に取り替えの聞く部品宜しく、取り替えられてしまうというのは利用者側にとっては大きな人権侵害ではないかと思います。事実、私が辞めた後、辞めた事を知らずに窓口に相談に行ったろう者の何人かは私がいない事を知ると、相談せずに家に帰り、個人的に連絡してきたり、手話サークルに来るなどして私にどうすればよいのかを相談に来るという事が何度もありました。もちろん、相談を受けたところで何らかのアクションがとれる立場にない事から、彼らの問題点を一緒に整理した上で、改めて役所に相談に行く事を勧め、新しい担当者が優しいいい人である事を告げ、役所に改めて出向くように水を向けます。また、同時に、役所にも連絡し、当事者から聞いた内容と一緒に整理した中で見つけた問題点や注意点についてアナウンスしておくという事もしたうえで本来の形に戻すようにしていますが、これとていまだにそういうケースはある訳で、いかに信頼関係が重要かを示しているのではないでしょうか。それでも、役所には行かないというろう者もいますが。
 問題を抱えて相談に来るろう者の多くは聴者に対して不信感を潜在的に持っている場合も多く、こうやって担当者がコロコロと変わるとか、曜日によって担当者が変わるという事が大きなストレスになっていたり、役所との「壁」になっていることも多いようです。曜日によって担当者が変わるという場合、その担当者がいる曜日を狙ってやってくるという場合もありました。また、私の関わったケースの中でも、周辺の住民とはあまりうまくいっていない人で、それこそ聴者に対して深い不信感を募らせていた高齢の方の場合、何度もお話をし、色々な話(その多くは全くの雑談でしたが)をするうちに信頼してもらう事が出来、そうなると逆に、頻繁に役所に遊びに来られるようになり、派暗視をする中でその人の現在抱えている問題を引き出し、対応策を講じ、生活の質を改善していくという事が出来たケースもありました。その方は、私が辞めた後、様々な理由により某ろう高齢者施設に入所しましたが、じっくりと同じ担当者が腰を据えて関わる事の必要だったケースだと思います。逆に、どうしても信頼関係が築く事が出来ず、結局最後まで私に対してはなんの相談も、それどころか通訳さえも断られたというケースも存在します。こういう場合、もう一人の担当者がいれば、その人が信頼関係を違うアプローチで築くという事も可能だっただろうと思います。この人のケースでは、登録通訳者の中に信頼関係のある通訳者がいて、その人がクッションになる事で対応する事が出来ましたが。
 こういう事もあって、私はこの問題を些細な事とは捉えられない訳ですけどね。

 文章について、はつさんから「耳が聞こえなくても分かる文章に通訳してください」というご指摘を受けました。これも大きな問題ではあると分かっていますけど、難しい問題でもあるんですよね。「通訳する」という事ですが、文章を分かり易くするという意味では「翻訳」という事になる訳です。この文章を別のスペースで語調を変えて分かり易い調子で書くという事になると、それなりの時間が必要になります。では、端(はな)からそういう調子で書けばいいのじゃないかという意見も出てくるでしょうが、そうなると文章が長くなったり、長くないようにすればそれはそれで情報量が落ちてしまったり違うモノになってしまう可能性も出てきます。これについては以前からどういうスタイルが良いのか考えているところで、まだ結論には至っていません。
 そもそも、ここをよくご覧頂いている常連さんの中でも、龍児さんや桃象さんにはこの文章って何らストレスになるモノはないでしょうし、そうなると、どこら辺のどういう「耳の聞こえない人」に焦点を当てた文章にするのかという事も考えなければいけない訳ですよね。通訳現場では対象者が目の前にいて、対象者の反応を見ながら表現や補足の微調整を行う事が出来ます。複数の対象者の場合も、内容によっては数人の判らなさそうな人に焦点を絞って補足説明を加えるというような方法も効果がありますし、その補足の具合も対象者の反応を見ながら決める事が出来る訳で、「適正値」をコントロールする事が出来ます。ところが、テキストベースのこういった場所では対象者がどんな反応をしているのか、読んでその意味が何処まで理解出来ているのか、どういう受け止め方をしているのかといった事についてのフィードバックが殆ど無い訳で、手段としてはコメントを書いて頂くとか、メールを送ってもらうといったかなり積極的な方法でしかない訳です。コメントの信憑性を疑ったりする気は全くありませんが、一部の人がどう考えているのかが反映されるのがコメントやメールだと私は思うんですよね。それぞれ個々に受け止め方やそれに対する感じ方が違う訳で、その中でコメント頂いた事に何処まで対応していく事が良い事なのかというのは結構難しい問題なんじゃないかと思っています。
 龍児さん風にいえば、「それは聞こえの問題というよりも、教育の問題だ」という事になるのでしょうか。「文章」という表現方法は、原則的に見て理解する言葉で構成されている訳で、日本語の文法や法則に従いつつも、聞こえなくても利用出来るコミュニケーション方法の1つです。ただし、教育面での大きな問題を抱えている限り、聴者と全く同様に利用出来る聴障者がどれ程いるのかというと、それ程多くはない(絶対数はかなりいるのでしょうけれど)のじゃないでしょうか。そういう意味ではその人達が私の各モノを目にして何らかの思いを抱いてくれるとすれば、その人達に合わせた形式というのも考えなければいけないと思っています。
 実は前々からそれらの事を考えているのはいるんですよね。で、おそらくそれらの人達にとって一番いい形式は、映像という形で伝える事なんだろうとも思っています。つまり、ビデオキャストで手話で話すという形式が一番良いんでしょうね。そうすれば、初さんのおっしゃる「耳が聞こえなくても判る文章に通訳(翻訳)してください」というモノに一番近い形になるのでしょう。判っているのですけどね、なにぶん、ビデオキャストを作ろうと思うと、それなりの技術と機材が必要で、現状ではちょっと無理という事になっちゃうんですよね。ポッドキャストもとりあえずの方法として考えていますが、こちらは音声のみという形式なので聞こえない人には尚更判らないという事になっちゃいますね。