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 晴れ。雲ひとつ無い青空。 月齢28.6 晦日月

 登録通訳者であっても、お金をもらって通訳をしている限りいわば「プロ」としての通訳者であるという事について私の地元ではおそらく誰も異論を挟む事はないと思っていますし、事実、一昨年からの私の質問等に対しても、「(通訳協会の業務は)仕事として行っている事」という回答があり、それについては一安心している訳です。が、では、プロとしての自覚が十分であるかどうかという点については、大きな疑問を感じる事ばかりで、通訳者にも運営側にいる理事にももっとその辺りの事をよく考えてもらいたいと思うと共に、専門職としての知識の足りなさというモノを感じています。
 例えば、今の手話通訳者の多くはとても勉強熱心で、手話の学習会があると聞くと遠くまで出かけて学んできます。が、それらの多くは手話表現の学習であったり、読み取り通訳の練習であったり、新しい手話単語の紹介であったりと、知識のベクトルが手話にかなり偏重していると感じています。ところが、手話通訳者に求められる技術的要素や知識は手話だけではありません。「手話-日本語」通訳者である限り、もう片側の言語、日本語に関する技術や知識が求められる事は避けようのない事で、「私日本語苦手だから」では済まされない事だという事をホントの意味で意識し、学習している通訳者は実はほんの一握りに過ぎないんですよね。この辺り、実はろう者が錯覚している事で、「聴者は日本語が出来るのが当たり前」という前提でいてるので、その日本語が果たして通訳者として通用するモノなのかどうかのチェックがされないまま来ている気がします。これ、実は途方もなく恐ろしい話だと思いませんか?
 最近は「手話が出来る」事と「手話通訳が出来る」事とは違うという事が多くの人に理解されてきました。とは言え、手話関係者という枠の中の事で、日本ではまだまだ「話せる」と「通訳が出来る」との違いが多くの人には解らないままでいます。これは、日本という国の中で生活している限り、殆ど通訳を介する必要がなく、生活の中に「通訳」という文化が無いからです。もうひとつ、ろう者や手話関係者の中で理解されはじめているのが「手話が出来る」と「手話を教える事が出来る」とは違うという事です。これは、「教える」為の技術だけではなく、手話を第一言語としているろう者であっても、教えるためには普段使っている手話を論理的に整理して理解出来ている事やどういう理由(仕組み)でそういう表現をするのかといった事を説明出来る力とそのために自らの手話を見直してみるという事が必要になります。これと同じ理屈で、聴こえるからといって、日本語を話せるからといって、日本語を流暢に使いきる事が出来るのかというと違っています。まして、同時通訳はその瞬間瞬間に最も相応しい言葉を選び、変換していかなければいけません。日本語から手話に変換する際にしても、その言葉の意味範囲のどの部分がこの場合適応されていて、その意味範囲にはまる手話はどういう表現かという事を瞬間に決めていかなければいけない訳ですし、手話から日本語への変換の際にも、同様の作業が必要になる訳で、日本語の力がどちらも求められます。
 ところが、従来の手話通訳養成では手話の力に重きがおかれ、日本語に関しては全くといっていいほど学習する事はありません。「イントラリンガルトレーニング」にしても、手話によるイントラリンガルトレーニングはよくやられているようですが、日本語でのイントラリンガルトレーニングはどうでしょうか? 聞き取り通訳時の手話表現にしても、日本語の言い換え(イントラリンガル)が出来ていないと適確な表現を探す前段階でつまる事が多いのではないでしょうか。特に読み取り通訳に関しては日本語のイントラリンガルの力が大きく通訳結果を左右する事は間違いないでしょうし、そういう意味では日本語の力をもっとつける必要があると思います。
 そういう意味では、専門用語にしても、それらの表現方法にこだわる通訳者が多く、実際に現場で現行にアンダーラインを引いて、表現方法を書き込んでいる通訳者はよくいますし、「これはどう表現すればいい?」と聞かれる事もよくありますが、「この言葉の意味は?」と聞かれる事はそれ程多くないんですよね。これ、どうしてなんでしょうか。私は表現方法よりもその意味に注視していますし、意味さえ解ればそれをどうすれば分かり易く伝えやすい表現に出来るかも探す事が出来ると思っているんですよね。その場でその言葉に一対一対応の表現方法を覚えたところで、その表現が対象者に理解出来るとは限らない訳で、その場合、意味が解っていないとイントラリンガルなんて出来ないと思うのですけどね。
 イントラリンガルが出来る能力っていうのは実は通訳者にとってはとても重要な能力で、利用者の理解の範囲にあった伝え方が出来るという事を意味しています。この部分の学習が遅れているというのは言い換えると、自分流の表現方法から抜け出す術をあまり持たないという事を意味している訳で、対象者を選ぶ通訳をしているのかも知れないですね。そういう意味でも、日本語のイントラリンガルトレーニングをもっとしなければいけないのではないでしょうか。